アリス、アリスに会う   26−43


26  <心は何故好き好んで(常識では考えられないと思うのですが)、不如意へと心をもっていくのでしょうか?
別に、私たちの心が好き好んで不如意を体験するわけではありません。アリスさんは山歩きがお好きだったようですが、山に行く人が遭難するのは、好き好んでするわけではありませんね。昨日テレビで、チリの軍隊が山で訓練中に遭難したというニュースを報じていました。私はその映像を見ながら、八甲田山の悲劇を思い出していました。

 山に行く人が遭難するのは、好き好んで、遭難しようと思って遭難するわけではありません。それは、登ろうとする山の研究が足りなかったり、装備が不十分だったり、天候の変化を読み間違ったり、基礎体力が不足していたり・・・要するに、体勢が十分でないのに、気負いや不注意から無理をして遭難するのです。

 私たちが不如意を体験するのも、それと同じです。私たちは、自分の心の使い方が下手なので遭難しているのです。

27 アリス不如意とは、<自分の心の使い方が下手>なために起きるというお話で、 問題が一挙に複雑になってきた感じがします。山登りの事例を出されましたが、山登りのように、自分が意図したことで、自分の力不足で遭難するのはやむを得ないとして、よく言われるように、この世に意図して生まれてきたと思っている人はいません。地震、津波、色んな事故での被害に会う人、生来のハンディを抱えて苦しむ人、これらの人はどこか心の使い方が下手なため、不如意や悲しみに出会うのでしょうか?

28 この世に意図して生まれてきたと思っている人はいません> それは事実です。けれども、この世に意図せずに生まれてきた人はありません。アリスさんは、このことを信じられないでしょうが、真実は真実です。私たちは、誰一人、この世で何をするか、この世でどんな事件に巻き込まれるか、知らずに生まれた人はいないのです。

 このことは、私たちの人生のすべてが生まれたときから決まっているという意味ではありません。人生の中にはたくさんの選択肢があります。その選択のすべてが、あらかじめ決められているわけではありません。人生の細部は成り行きで決まっていきます。けれども、そこには法則があります。どのような生き方をすれば、どのような道に進んでいくかということは、私たちはみんな知っているのです。けれども、私たちの顕在意識、あるいはエゴ、はそのことを忘れ、あるいは故意に無視して生きようとします。その結果として不如意にあい、自分の生きる意味さえ見失ってしまいます。

 ここで、ちょっとこの問題を横から眺めてみてください。アリスさんは、不如意というものを客観的に定義できると思われますか。自然災害や事件や事故に巻き込まれて命を落とす人をみて、はたから見ている人は、可哀想な出来事だ、当人にとってたいへんな不如意に違いないと思うでしょう。けれども、その死を通り抜けてあの世に行った当人が、それを不如意だと思っているかどうか、どうやってわかるでしょうか。それを不如意だと受け止めるのは、当人のエゴでしょうか、魂でしょうか。

 私は以前にこういう言い方もしたと思います。不如意は、エゴにとっては存在するが、魂にとっては存在しない、と。

 これからの話を進める上で、この二つの視点を区別しておくことは非常に重要だと思います。このことに同意していただけるでしょうか。

29 アリス エゴと魂の区別ということ、「自分を探すアリス」でも話し合ったことなので、受け入れることは吝かでありません。

しかし、私には、話の流れにどこか混乱があるように思います。

少し、私の観点から整理しますと、冒頭、不如意の3つの具体例でその解消法をお伺いいたしました。仏教の縁起説の説明を求められ、あらゆる無我説を紹介しました。それには4  要するに、不如意は感じる奴が悪いんだから、そいつの首をちょん切れ、というわけですね。Off with her head! と叫ぶどこかの女王様みたいに。>ということでした。

歯が痛い、お金がないの話に移り、最も根源的な因果の法則は、心の中のものが外界に実現する、という法則です。心の中に「因」があり、外界に「果」がある、これが根源の因果律です。>だから、欲する状態に心をもっていけば願いは叶うということでした。

一言で言えば、私たちが経験するのは、すべて自分の心の中にあるものだからです。したがって、むしろ願っていることが実現するのは当然のことなのです。願っているのに、実現しないということのほうが不思議なのです。>私は、それなら、不如意も心に現れということになるが、心がそのような不如意をも求めているとは思わないのに、なぜだろう考えたのです。それに対して、心の用い方が悪いという話が出てきました。事故や自然災害など本人に心の用い方に一見無関係に見える不如意に対して、今度は心が二つにエゴと魂に分かれ、魂には不如意はないというところにきています。

それを不如意だと受け止めるのは、当人のエゴでしょうか、魂でしょうか。>

勿論、エゴです。この対話の発端がこのエゴに刺さった矢(不如意)をどうしたら抜けるのかということだったのではないでしょうか?

私に混乱と思えるのは、これまで猫さんが心と言っておられたのは一体なんだったのか再吟味を迫られるからです。

30  私が心、魂、エゴという言葉を無頓着に使うので、アリスさんに混乱を与えたようですね。少し、整理しましょう。

 広い意味では、心というのは、私たちの存在の全体を指しています。私は肉体も物質世界もすべて心の中の映像であると思っていますので、私たちの全体を表すのに心という言葉を使います。その中で、物質的な面を映し出している肉体と外界の部分を取り去ると、残りがいわゆる内面世界ということになります。狭い意味では、心はこの内面世界だけを指します。内面世界はエゴと魂の二つに分かれています。

 これが現在の私たちの存在のあり方の模式図です。これを図示すると、次の図のようになるでしょう。この中で、私たちが通常「自分」として意識しているのは、エゴと肉体の部分だけです。

 このような存在のあり方の中で、エゴは肉体と外界を観察し、その中に不如意を感じます。不如意とは、文字通りにとれば、自分の意に反することという意味です。

 外面世界というのは、内面世界を鏡に映して見ているようなものです。肉体と外界の出来事はすべて内面世界の中で作り出されています。けれども、エゴはそのことを知らないので、自分の意に反する出来事、望みもしない出来事が起こると思い、不如意だと感じます。

 魂は、すべてが内面世界でつくられていることを知っており、すべてが自分自身であることを知っているので、魂にとっては不如意ということはありえません。

 鏡に映される内面世界とは魂とエゴですが、エゴは、この心全体の構造について知らないだけでなく、自分自身(エゴ自身)についてもほとんど何も知りません。エゴ自身の大部分が潜在意識となって、エゴ自身に対して隠されています。自覚しているエゴの部分は、エゴ自体の1割にも満たないでしょう。このため、エゴにとっては、肉体と外界に映し出される出来事のほとんどは、自分の身に覚えのない出来事であり、不如意ばかりが発生することになるのです。

 私は、不如意が発生するのは心の使い方が下手だからだといいました。それは、私たちが自覚している意識の部分(エゴの1割程度)が全体に対して非常に小さくなっていることに対応しています。私たちが自覚している意識の部分からは、心全体を動かすことができないのです。

 このため、不如意を解消することはエゴのレベルでは不可能です。不如意を解消するプロセスとは、エゴの顕在意識を拡大して潜在意識を統合し、さらに魂とエゴの統合を進めることです。それによってこの心(広義の心)全体の構造が変わっていく以外には、不如意を解消する道はありません。

 その意味では、「首をちょん切れ」と叫ぶ女王の言葉は的を得ています。エゴがなくなれば、不如意はなくなります。けれども、それは、エゴ以外のものをそのままにしておいて、エゴだけ切って捨てればよい、という意味ではありません。そのようなことは不可能です。すべては、一つの心の中の部分なのですから、一部だけ変えるということは不可能です。エゴは魂と統合されることによって、実質的になくなっていくのです。

 この変化を教えるのに、二通りのやり方があります。

 一つは、結局のところ何をするの? という教え方です。仏教はその方法を取りました。そこで、仏教では「エゴをなくせばいい」という言い方になります。

 もう一つは、エゴをなくすための第一歩は何か、ということを教える方法です。この道をとったのがキリスト教です。だから、キリストは「互いに愛し合いなさい」ということを教えました。

 キリストの教え方では、どこに行くのかは分かりません。ただ、忠実にキリストの教えに従った人は、自然にエゴをなくす道に導かれていきます。けれども、どこに行くのか分からなければ動けないという人は、この方法では動けません。

 仏教のやり方では、どこに行けばいいということは分かりますが、ただそれを知っただけでは、何も変わりません。結局のところ、1歩1歩、キリストの教えた道、魂とエゴの統合の道を歩むほかはないのです。釈迦の教えた八正道も同じことです。

 私たちの今回の会話は、不如意を解消するにはどうしたらいいか、ということから始まりました。首をちょん切れ、という話もありましたが、それがわかったとしても、それは猫の首に鈴をつける話と同じで、誰もエゴの首を切れる人はいません。

 そこで、健康の話とお金の話を通じて、「私たちの心が外界の出来事を生み出すのだから、心の使い方をマスターしなければならない」ということを話してきました。私たちは、心をマスターする道を歩んでいけば、自然にエゴを消滅する道に導かれていきます。

 それは、どこかで厳しい試練にぶち当たるかも知れません。そのようなものが何もなくて、スムーズにエゴと魂の統合まで行き着く幸せな人もあるかも知れません。

 けれども、結局のところ、不如意を解消するというのは、エゴをなくす道なのです。エゴの範囲にとどまり続けながら、不如意を解消したいと願っても、それは決してかなえられることはないでしょう。

 

31 アリス: 猫さんの「心」が図式されました。

<不如意を解消するというのは、エゴをなくす道なのです。エゴの範囲にとどまり続けながら、不如意を解消したいと願っても、それは決してかなえられることはないでしょう。>ということですと、これまで、A,B,Cを別々に論じる意味が果たしてあったのかと思いますが、A,B,C別々の方法があるのかもしれませんので、そのことは暫く横に置きます。

今は、猫さんの「心」図解をもう少し深く理解したいと思います。

歯が痛いと思っているのは、この図でエゴなのでしょうか?もっと簡単な例でいいますと、ここに花がある(あるように見える)として、そう見ているのはエゴなのでしょうか?それとも魂のなのでしょうか?それとも両方なのでしょうか?

32  「自分を探すアリス」の対話330の終わりに、私はこんなことを言っています。

 「もっと簡潔に表現すれば、『エゴのレベルでいたいなら、不如意はなくならないもの』と達観すべきだし、『不如意をなくしたいならエゴのレベルを離れなさい』というのが、私の考えなのです。」

 私の言うことは、少しも進歩していませんね。

 <これまで、A,B,Cを別々に論じる意味が果たしてあったのかと思いますが>ということですが、「エゴをなくさなければ不如意は解決しない」というのは、究極の目的地を示しているのであって、A,B,Cはそこへ行くためのステップの一つです。Aは最初の一歩であり、Bは第二歩であり、Cは第三歩です。

 <ここに花がある(あるように見える)として、そう見ているのはエゴなのでしょうか?それとも魂なのでしょうか?それとも両方なのでしょうか

 両方が花を見ています。エゴはそれを実在する花だと考えていますが、魂は、それがイリュージョンであることを知っています。というよりも、魂は、エゴが花のイリュージョンを見てそれを実在だと思い込んでいる、という状況を見ているというほうが正確かもしれません。

33 アリス:歯痛の問題に戻る前に、より単純な花を見るということで、もう少し、確認させていただきます。この対話で繰り返されている、心の描く通りのものが実現すると言うことに関連して、今、花を見ているとして、どちらがそのように思ったから、花が見えるようになったのでしょうか?エゴなのでしょうか?魂なのでしょうか?

34  この質問は予想していました。これにも両方が関係しています。

 できるだけ簡単になるように整理してお話ししますが、エゴが見るイリュージョンには二種類ある、と私は思っています.

 一つは、エゴが自分で作り出すイリュージョンで、それには魂は関係しません。ただ魂は、エゴがそのようなイリュージョンを見ているな、ということを知っているだけです。エゴが自分で作り出すといっても、大部分はエゴの潜在意識の部分が作り出しているので、エゴは自分が作っているとは思っていませんが。

 もう一つは、魂が送る情報をエゴがゆがめて解釈することによって生じるイリュージョンです。魂の世界には「花」という具体的な「もの」は存在しません。すべて情報あるいは波動(人間の言葉で表現すれば)のような抽象的な何かという形で存在しています。それを具体的な形に翻訳するのはエゴです。そのとき、エゴは自らの持っている性向に応じてそれをゆがめます。その結果として、魂が送ったものと似ても似つかないものを見る、ということが起こります。

 では、魂が送る情報をそのままで受け取ることもあるのか、という疑問がわくと思いますが、たぶん厳密に言えば「そのまま」というのは不可能ではないかと考えています。たとえば、太陽が放射する電磁波は、低周波の電波からX線、ガンマ線の領域まで非常に広い範囲に分布していますが、人間の目がとらえることができるのは、可視光線という非常に狭い領域だけです。同じように、エゴは魂が送る波動のごく一部しか受け取れないだろうと思います。その結果として、エゴが魂からの波動を受け取る場合には、多かれ少なかれゆがみが発生することになります。といっても、エゴが比較的ゆがみの少ないイリュージョンを見ている場合というのはあるわけで、そういう場合は、魂の波動をそのまま受け取ったといってもいいかと思います。

35 アリス:私は今花を見ています。花を見ていると思っています。どうしてこのようなイリュージョン(この表現についてはまた考えることにしますが)を見るのかについて二つの理由があると混乱します。どちらによっているか区別がつくのでしょうか?

36  花を作り出すのは魂で、列車事故を作り出すのはエゴである、というような形で、いつでも適用できる一般的な判断基準を求めておられるのでしたら、そのようなものはないと思います。

 そのような方向に注意を向けるのではなく、「私がいまこの花を見ているのは、私にとってどういう意味があるのだろうか」という質問を、ご自分の魂に向かって問われるのがよいと思います。そのような努力を続けていれば、次第にその意味に気づくことができるようになり、それが魂から来たものか、エゴから来たものか、あるいは両方からきたものか、分かるようになると思います。「両方から」と言ったのは、魂から来たものをエゴがゆがめている場合や、逆に、エゴが作り出したものに魂のメッセージが載せられていることなどがあるからです。

37 アリス:ちょっとくどくなりますが、肝心なところなので、確かめさせてください。

私は一般的な基準を求めているわけではありません。今、私が花を見ていることについてお聞きしているのですが・・・歯痛よりもっと単純な?ものへと話題をもっていって方がこれからの話が分かりやすくなると思ったからです。

<「がいまこの花を見ているのは、にとってどういう意味があるのだろうか」という質問を、ご自分の魂に向かって問われるのがよいと思います。>

ということは、論理的に随分飛躍があるように思えます。問題にしているのはこのではないでしょうか?また、この問を発するように求められているとは、猫さんの図式でいうとどうなるのでしょうか?

38  肝心のところですから、遠慮なく、何度でも確認してください。

 とはいっても、私は、アリスさんが何にこだわっておられるのかよく分かっていないようです。アリスさんがいま「私」と呼んでいる(感じている)ものは、この図式の中で、どれに相当するのか、というご質問でしょうか。

 もしそうだったら、それはエゴであるとお答えします。

 私の図式の中で、「私」という言葉を使えるものは二つしかありません。それは、エゴと魂です。もし、いま、アリスさんの「私」が魂であるとしたら、いまのような質問はなさらないはずです。したがって、アリスさんの「私」はエゴであるほかはありません。これで答えになっているでしょうか。

 付記:

 肉体も「私」になり得るのではないか、と思われるかも知れませんが、私の図式では、肉体は外面世界の一部であり、それは内面世界がつくりだしたイリュージョンです。そういう意味では、アリスさんはいま「私は花を見ている」とおっしゃっていますが、ほんとうは、私は「私に肉体があり、それが花を見ている」というイリュージョンを見ている、とおっしゃるべきなのです。それが、私の見方です。

 もう少し詳しく説明します。

 花は、アリスさんの肉体や眼、脳にとっては決してイリュージョンではありません。それは、れっきとした現実です。肉体が幻想を見ているのではない、ということは、これまでにも何度もお話ししたと思います。けれども、肉体が存在し、花が存在し、肉体が花を見る、というその全体がイリュージョンなのです。それを見るのはエゴです。エゴは物質ではありません。物質ではないので、物質世界のイリュージョンを見ることができるのです。

 組織図の形で書くと、エゴと魂と二つのものが別個に存在するように見えますが、私は、エゴというのは、魂の機能の一部が独立組織のように動いているものだと考えています。それは、会社の中の一部の組織が、独立採算で、自分たちだけの事業を始めたようなものです。この独立状態にある組織をもとの全体組織に戻し融合させることが、霊性を回復するという言葉の意味です。

39 アリス:<アリスさんがいま「私」と呼んでいる(感じている)ものは、この図式の中で、どれに相当するのか、というご質問でしょうか。もしそうだったら、それはエゴであるとお答えします。>

 このお答えで十分です。ただ、<エゴというのは、魂の機能の一部が独立組織のように動いている>というですね。私が花を見ているということは、魂がエゴを介して見ている花を見ていると言っていいのでしょうか?エゴがなくなると花は見えなくなってしまう。もっと言えば、エゴがなくなると花は存在しなくなると考えていいのでしょうか?

40  <エゴがなくなると花は存在しなくなると考えていいのでしょうか> たいていの場合、そうだと思います。エゴが見ているものの大部分は、エゴが自ら作り出したイリュージョンですから、魂にとっては最初から存在していません。魂は、エゴを通して花を見ているというよりは、エゴが花を見ているということを見ている、と言うほうが正確に近いのではないかと思います。

41 アリス花が存在しなくなるのであれば、他も押して知るべしですね。すべてがなくなりますね。歯痛など問題にならない。歯さえなくなりますね。

エゴがなくなると(そのことが可能か、また無くすための方法についてまたお聞きすることにして)イリュージョンが消えてしまうので、もう「私」は存在しないことになります。

それとも、<エゴが見ているものの大部分は、エゴが自ら作り出したイリュージョンですから、>ということは、エゴが自ら作らないイリュージョンを見たり、また、エゴが消えても何か「私のようなもの」が残っていて、エゴの作らないイリュージョンを見るのでしょうか?

42  <エゴが消えても何か「私のようなもの」が残っていて、エゴの作らないイリュージョンを見るのでしょうか?

 そうだと、私は考えています。エゴがなくなったあとに残るのは、『自分を探すアリス』の中で私が「自分という意識」と呼んだものです。

 私たちの「私」というのは、みんな「自分という意識」です。それは、自分自身では何の属性も持っていないで、何かを「自分」だと思うことによって自分の属性を獲得します。先ほど38で、アリスさんの「私」はエゴだといいましたが、それはエゴがアリスさんであるということではなくて、アリスさんの「私」がエゴを自分だと思っているということです。エゴがなくなればエゴを自分だと思うことはできませんから、アリスさんの「私」はほかのものを自分だと思うようになります。

 もし、エゴと魂しかないとすれば、エゴがなくなったあとは、魂を自分だと思うほかはありません。単純化して言えば、これが、私たちが魂に融合するということであり、霊性を回復するということです。

43 アリス:山登りにたとえますと『自分を探すアリス』が一つの山登り、今回は2度目の山登りです。一歩一歩麓から歩いて見たいと思っています。アリスの足は遅いですのでよろしくお願いします。

その意味では、最後の2行は私にとって何百メートルを一挙に引き上げれるような混乱を感じます。

さて、エゴが消えた後に残るものを「自分という意識」と名づけて、進むことにします。

このことを確認するために、今度は逆に「自分という意識」から、どのようにエゴが発生するか説明できるのでしょうか?発生の過程が分かれば、消滅させることもやりやすいと思いますし、「自分という意識」がよく理解できると思うのです。

(「自分という意識」が魂に属すものなのか?エゴの残骸なのか?ここでは問わないことにします。)

次へ  目次へ   2005・6・3