アリス、アリスに会う  213−224

213 アリス「人生万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄のごとし」ですが、すぐ次の句が浮かびます。

Fair is Foul, and foul is fair:

これはマクベスの冒頭にある魔女の台詞です。色んな訳があって、ハムレットのto be, or no to be
と同様に訳者によって様々な訳がつけられて箇所ですが、一応「良いことはとは悪いこ 悪いことは良いこと」としておきましょう。猫さん引用の諺のような意味にも取れます。

私は今回の猫さんのお話にはちょっとショックを受けました。というのはこの対話はそもそも禍を避け福を得ようと続けられた来たと思いますし、読者(このページを覗かれる人がいるとして)もそうだと思うのです。

<生命の世界は、白と黒の二重螺旋でつくられており、白から黒へ、黒から白へ、絶えず行き来しながら、無限の螺旋階段を登り続けるのだと思います。>

これだとどちらに転んでも、変わらないし、「人生万事塞翁が馬」。
この対話での様々なアドバイスも、猫さんのサイトのカフェ「夜明け」のゲストへの見事なアドバイスもどう位置づけるべきか?など考えてしまいます。

モモも灰色の男も実はものの表裏のようなものかも知れませんが、出来れば、モモのような明るい世界に住みたいと思うわけです。

214  : 「なるほど」と思います。アリスさんの疑問ももっともですね。

前回、私は<「生命の全体を見ることができるなら、不幸と見えるものも、悪と見えるものも、別の姿をもって現れます>と書きました。このことをもう少し、見てみましょう。

生命の世界に上昇と下降、誕生と死、建設と破壊、出会いと別れといった相反する動きがあることは普遍的に見て取れます。問題は、私たちがその片方だけをよいものとし、他方を悪いものとして拒否するところにあるのではないでしょうか。

私たちの身体の細胞は、3年経つと全部入れ替わるといわれています。絶えず古い細胞を廃棄し、一方で絶えず新しい細胞を作り出しているのです。常緑樹は、季節にかかわらず、絶え間なく葉を落としながら、一方で絶えず新しい葉をつけることで、恒常的に緑を保っています。今年は秋の気温が高く紅葉が遅れたといわれていますが、落葉樹は気温が高すぎると完全に葉を落とすことが出来ず、そうすると木全体が枯れてしまうそうです。私はいま、3000戸ほどの住宅が立ち並ぶ町に住んでいますが、その中では絶えず破壊と建設が同時並行で進んでいます。絶えずどこかで古い家が取り壊され、新しい家が建っていきます。

このようにして、命あるものはすべて、絶え間なく、一方で死に一方で生まれる、という作業を続けているのです。

生と死、建設と破壊は繰り返されてはいますが、まったく同じことが繰り返されるわけではありません。秋に葉を落とし、冬のあいだ冬眠した木は、春になると新しい葉をつけます。けれども、前の年とまったく同じになるわけではありません。毎年すこしずつ成長していきます。私の住んでいる町も、破壊と建設を繰り返しながら、次第にその姿を変えていきます。30年前に建った家と最近建つ家とでは、外観も内部も違います。町は少しずつ近代化していくのです。

生命は白と黒の螺旋階段で出来ています。螺旋階段ですから、一回転するたびに、少しずつ上昇していきます。そうすると、白も黒も少しずつ色合いが変わってきます。いつの日か、それはピンクとグリーンの階段になるのかもしれません。その頃には、私たちも一方の色だけを受け入れ、他方を拒否するというようなアンバランスな考えは持たないようになっているでしょう。

モモの物語について言えば、私たちのこのようなアンバランスな考え(あるいは心情)が灰色の男達を生み出し、それがモモを呼び寄せたのです。私たちがアンバランスな心情を捨てることが出来たならば、灰色の男たちはいなくなり、モモもいなくなるでしょう。その代わり、私たち全員がモモのようになるのです。

215 アリス: 黒(禍、不如意、苦)から白(福、如意、楽)へと移る方法はないものかということがそもそものスタートでしたね。何だかその方法があるかのように進んできましたが、<問題は、私たちがその片方だけをよいものとし、他方を悪いものとして拒否するところにあるのではないでしょうか。>ということで、捉え方が大きく変わってきたように思えます。

良寛さんの「
災難にあう時節には、災難にあふがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候」に近いでしょうか?

実は私は猫さんに近い意見ですが、<生命は白と黒の螺旋階段で出来ています。螺旋階段ですから、一回転するたびに、少しずつ上昇していきます。そうすると、白も黒も少しずつ色合いが変わってきます。いつの日か、それはピンクとグリーンの階段になるのかもしれません。>のような楽観的な考えは持てません。
禍福は猫さんの用語を借りれば<ヴァーチャルな自己>、別の言葉で言えばエゴを発生させた時から生じるもので、これが自己=命の本体なので、煩悩即菩提と言われるのも
この辺のことを言っているのではと思っています。

それにしても、お正月では私も人並みに初詣をして、わずかなお賽銭をあげて、「家内安全」「無病息災」「商売繁盛」を祈ることでしょう。また、出来るだけ歩いて体力も維持したいなど考えています。

216  : 良寛さんがこの言葉をどういうつもりで言われたのか私にはわかりませんが、私の言いたいことは、私たちの心が災難や死を恐れ、それから逃れたいというところに凝り固まっていると、いつまでたっても災難や死にまとわりつかれる所にとどまってしまうということです。

モモも、灰色の男たちから逃げようとしたときには、どこまで行っても逃げられませんでした。けれども、もう逃げないと決心したときに、とつぜんカメのカシオペアが現れて助けてくれたのではないでしょうか。

アリスさんは、生命は螺旋階段ではなく同じ円をぐるぐる回っているだけだ、と考えておられるようにみえますが、私は、生命は螺旋階段であり、またそれを意識することによって、それを登ることができるのだと考えています。逆に言えば、登るという意識がなければこの階段は少しも登っていかないかもしれないのです。そういう意味では、アリスさんのお考えも真実の一端を表しているのだと思います。

では「登る」意識とはどういうものかというと、それは個々の禍福にとらわれない心だと思います。禍福がなぜ現れるかというと、それは自分自身の心の影なのです。どういう心が黒い影を落とすかというと、災難や死を恐れる心です。つまり、鶏と卵のようにぐるぐると回っているのです。

生命の螺旋階段は、1回の人生だけでは終わりません。私たちの生命は永遠であり、何百回もの転生の連鎖全体が螺旋階段なのです。災難も死も、その階段の途中にある一瞬の出来事にすぎません。そのようなものにとらわれずに、階段全体を視野に入れていることが、階段を登る原動力になるのだと考えています。

217 アリス <アリスさんは、生命は螺旋階段ではなく同じ円をぐるぐる回っているだけだ、と考えておられるようにみえますが、私は、生命は螺旋階段であり、またそれを意識することによって、それを登ることができるのだと考えています。>
私の中には円環的なイメージはなく、広大無辺の世界がダイナミックに変化しているという感じなのです。いずれその中に螺旋階段が見える日が来るかもしれませんが・・・

ところで、「塞翁が馬」と言い、「螺旋階段」
と言い、猫さんのお考えに何か変化のようなものを感じるのですが、いかがでしょうか?
対話の初めでは意識をありたい方に持っていくばよいという説から始まっていますが、今では禍福にとらわれな心を持ち出されました。そして螺旋状に変化する中を「登って」いけばやがて禍福も消えるであろうと言うことになりました。
つまり
@禍は避けることが出来る。意識を福の方に持ってゆけばよい。
A禍福は生命の本質だから避けることが出来ないが、禍福にこだわる意識から離れると螺旋階段を登って行き幸せ(この言葉がいいのかどうか分かりませんが)になれる。

私を含め一般の人には、福を呼び込めるか?呼び込めるとしたらその方法は?に集約できるように思います。

218  :  <ところで、「塞翁が馬」と言い、「螺旋階段」と言い、猫さんのお考えに何か変化のようなものを感じるのですが、いかがでしょうか?>

なるほど、そういう風に受け取られるのか、という感じです。では、このあたりで、もう一度、私の考えを整理してお話ししましょう。

私の考えの基本は「この世で私たちが経験していることはすべて幻想である」ということです。私たちが肉体を持って物質世界に生きているということ自体が幻想なのです。肉体も幻想であり、それを通して体験する快楽も苦痛もすべて幻想です。ですから、そこで遭遇する禍福もすべて幻想です。数え切れないほどの輪廻転生の長い長い連鎖もすべて幻想です。

幻想であるという意味は、ちょうど私たちが映画を見るようなものです。したがって、幻想の中でどんな事件があり、禍福があろうとも、私たち自身がそれによって傷ついたり、苦しんだりすることはないわけです。私たちも悲しい映画を見れば悲しみを感じ、ホラー映画を見れば恐怖を感じます。むしろ私たちは、わざわざその悲しみや恐怖を体験しようとして、そのような映画を見に行くのです。けれども、その悲しみや恐怖によって自分が傷つくことはありません。それは、私たちが映画というものを架空の物語であると知って見ているからです。

どのような幻想世界を体験するかということは私たちが心の中にどんな観念を持っているかによりますから、自分の心の中の観念を自由にコントロールすることができれば、幻想世界を自分の好きなように変えることが出来ます。けれども、そのためには、自分の心の中の観念を自由自在にコントロールできなければなりません。ところが、私たちは自分の心を自由にコントロールできていません。それは幻想の自分である肉体を真実の自分だと思い込んでいるために、それに縛られるからなのです。

つまり私たちは、幻想世界に縛られるから心をコントロールできない、心をコントロールできないから幻想世界に縛られる、という堂々巡りに陥っているのです。この堂々巡りから脱出するためには、私たちの心を幻想世界から切り離さなくてはなりません。私がお話していることはすべてそのための方策です。

例えば「無条件の愛」。ふつう私たちは幻想世界に何が起こっているかによって愛したり憎んだりします。これは私たちの心が幻想世界に縛られているということです。これに対し、無条件の愛は、幻想世界に起こっていることとは無関係に、愛を心の中に保ちなさいということです。これによって心を幻想世界から切り離します。しかも、心の中に愛をみたすことによって、それが幻想世界に投影されて愛の世界を体験することになる、という仕組みです。

「禍福にとらわれないようにしなさい」というのも同じです。幻想世界の禍福にこだわっていると、心はそれに縛られてしまいます。禍があろうが福があろうが気にせずに、すべてを許容しすべてを許す心をもてば、それが幻想世界に投影されて、禍福の波のない幻想世界を体験することになる、という仕組みです。

要するに私は、「あなたの心を、幻想世界の出来事とは無関係に、自分の望む世界を生み出すような観念で満たしなさい」ということを言い続けているのです。

219 アリス:猫さんのお考えの基本が「この世で私たちが経験していることはすべて幻想である」ということは終始一貫しておっしゃっておられることであり、その観点から整理していただいてだいぶ分かりやすくなりました。
しかし、私は最近思うのですが
「この世で私たちが経験していることはすべて幻想であるは一種のパラドックスではないかと。つまり、「クレータ人は嘘つきだとクレータ人が言った」のようなギリシャ時代からあるパラドックス、自己矛盾を持つ言葉ではないかと思うのです。この論を延長しますと、猫さんも猫さんのご発言も私が受け止める限り、幻想となり、その意味さえ失いかねません。
しかし、そのことをここで正面きって議論すると大変ですので、今は、猫さんの提示された範囲で考えて行きたいと思います。

<どのような幻想世界を体験するかということは私たちが心の中にどんな観念を持っているかによりますから、自分の心の中の観念を自由にコントロールすることができれば、幻想世界を自分の好きなように変えることが出来ます。けれども、そのためには、自分の心の中の観念を自由自在にコントロールできなければなりません。ところが、私たちは自分の心を自由にコントロールできていません。それは幻想の自分である肉体を真実の自分だと思い込んでいるために、それに縛られるからなのです。

つまり私たちは、幻想世界に縛られるから心をコントロールできない、心をコントロールできないから幻想世界に縛られる、という堂々巡りに陥っているのです。この堂々巡りから脱出するためには、私たちの心を幻想世界から切り離さなくてはなりません。私がお話していることはすべてそのための方策です。>

これは「この世で私たちが経験していることはすべて幻想である」だとすれば、不可能のはずですが、「すべては幻想である」というのを、ある場合は幻想で、ある場合は幻想でない経験が出来ると改めるべきなのでしょうか?

<心を幻想世界から切り離>
す方法として次の二つを挙げられました。

一つは
「無条件の愛」。<幻想世界に起こっていることとは無関係に、愛を心の中に保ちなさいということです。>
二つ目は<禍があろうが福があろうが気にせずに、すべてを許容しすべてを許す心をもてば、>よい。
<要するに私は、「あなたの心を、幻想世界の出来事とは無関係に、自分の望む世界を生み出すような観念で満たしなさい」ということを言い続けているのです。>

この世界が体験できるとして、それが幻想世界であるかないか、どうして分かりますか?
ほかにも確かめておきたいこともあるのですが、ひとまずここで切ります。

220  : <この世界が体験できるとして、それが幻想世界であるかないか、どうして分かりますか?>

ご質問の趣旨が「この幻想世界の中にその証拠があるか?」という意味なら、そのようなものはありません。この世が幻想であることを知っているのは、幻想から醒めたことがある人だけです。私たちは、たぶん誰でも、時折瞬間的に、幻想でない世界を垣間見ることがあります。それは夢を見ている途中で一瞬眼が覚めるようなものです。けれども、たいていの人は、それが何であったかを理解できないので、そのうちに忘れてしまうのです。

<ある場合は幻想でない経験が出来ると改めるべきなのでしょうか>

その意味では、その瞬間だけは<幻想でない経験が出来る>と言ってもいいですね。

<これは「この世で私たちが経験していることはすべて幻想である」だとすれば、不可能のはずですが、>

私が「この世は幻想である」と言っているのは、夢の中に登場した猫が「これは夢だよ」と言っているようなものです。猫がものを言うのも夢の中の出来事ですが、だからと言って夢から醒めることが不可能だとは言えないのではないでしょうか?

221 アリス何時も振り出しに戻るような質問をして申し訳ありません。このパラドックスの話もゲーデルの不完全性定理などの世界に入って行けばどうしようと思っていたのですが、要は、幻想でない世界も経験できると言うことで簡単にパラドックスを乗り越えてしまわれホットしています。(私はパラドックスが悪いとも思いませんし、おそらく、私達の本質に触れるものと思っていますが、しばらくこの問題には触れません。)
この対話は終始、不如意からどうしたら脱却できるかの幸福論をテーマにしているのです。217で整理したことのぶり返しになりますが、、
@この世で体験するのは幻想で、それは私の意識の紡ぎだしているものである。意識を変えればよい。
Aこの世で体験することは幻想であるが、その幻想から覚めればよい。これが苦を免れる方法である。
と表現できると思います。

問題を単純にするために当面Aの側面は忘れることにしましょう。

@に限って見ますと、私達の見ている幻想はあまりにも自分の意識と離れて、私達がコントロールできない形で動いているように見えますが、これを私達の好ましい形に変える事が出来るのでしょうか?つまり悪夢を楽しい夢に変える事が出来るかという質問です。
この世の出来事の多くは因果の法則により、自分のコントロールの効かない因果の流れに沿っているように思えますし、この法則を知らんがために、科学者達は血みどろの努力をしています。
もし、このような法則があるとすれば、幸せに導く法則もあると思われ、宗教、道徳、処世訓、あるいは占い、マジナイなどがあって当然と思います。
もし、コントロールが効くとしたら、たとえば、スプーン曲げの念力のように、因果法則を越えるようなこともできるでしょう。となると、そんな力をどうして手に入れるかが問題となります。
我々はこの世が幻想かどうかは別において、幻想だとしても、楽しい幻想を見たいと望んでいます。
猫さんの幸福論はこの@の次元にどう関係するのでしょうか?

222  : 問題を非常にわかりやすく整理してくださってありがとうございます。

ご提案により、しばらくAは忘れることにしましょう。@は幻想から醒めるのではなく、幻想を見続けたいということですね。それも楽しい幻想を見ていたい。

答えは、アリスさんがお書きになった問題の定義の中に既に書かれています。

@この世で体験するのは幻想で、それは私の意識の紡ぎだしているものである。意識を変えればよい。

あなたが体験する幻想を作り出しているのはあなたの意識ですから、あなたが自分の意識を変えさえすればいい。ただそれだけです。

けれども、それがむつかしい。なぜ難しいかとiいうと、私たちは自分の意識を完全に掌握していないからです。自分の意識の中に自分の意識だと思っていない部分がある。ですから、その部分が作り出している世界を自分が創ったものだと認められないのです。

223 アリス:科学者が研究しているような、自分の意識とは独立した因果法則は
どう考えたらいいのでしょうか?この因果法則を意識的の取り上げているのですから、これも自分の意識だと思うのですが・・・

07/12/29

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