アリス、アリスに会う  199−212

199 アリス:神の遊びの話は無限に広がる話なので、しばらく『モモ』の灰色の男達の話を少し続けましょう。灰色の男達は、人間に時間を貯金させて、余裕のある時間を奪い、自分たちはその時間で生きている人たちです。彼らの策略でよって、登場人物のすべて、モモの親友の道路掃除夫ベッポも観光ガイドのジジも結局はこの渦に巻き込まれてしまいます。もう、誰も時間に余裕のない生活が始まります。効率を追う現代社会が上手く表現されていますね。

『モモ』を読んでいない人のために、最初の犠牲者、床屋のフージー氏が灰色の男達に会う直前の状況を引用しておきます。

  ある日のこと、フージー氏は店の入り口に立って、お客を待っていました。今日は使用人は休みをとって、フージー氏ひとりです。彼は道路にはねる雨をながめていました。いやな灰色の日です。フージー氏の気持ちも灰色です。
「おれの人生もこうしてすぎていくのか」と彼は考えました。「はさみと、おしゃべりと、せっけんの泡の人生だ、おれはいったい生きていてなにになった?死んでしまえば、まるでおれなんぞいなかったみたいに、人にわすれられてしまうのだ。」
(大島かおり訳、岩波書店)

こんなことを思っているときに灰色の男が現れます。
実はフージー氏の、この不足感こそ灰色の男の正体なのですが、彼も読者である我々も気づきません。猫さんの表現を借りると次のようになります。

<エンデが描いた灰色の男達も、この「愛エネルギー」に対する渇望の象徴だと思います。これは、愛エネルギーの欠乏による飢餓感に悩まされているけれども、それが何による飢餓感なのかに気づいていない人の心の象徴なのです。飢餓感の本当の原因を知らないので、本当の解決法がわかりません。このため、経済的、物質的な繁栄が解決法だと思い込んで、それを追い求める結果、ますます激しい飢餓感に追い立てられるようになるのです。>

私達の行動の大半は、この飢餓感を満たそうとする試みであるように思います。
そしてそれが自分の外部にあると思って追っかけるのですね。この飢餓感を忘れるためにいろんなことをする。

モモはこれに対抗する力として、ミヒャエル・エンデは渾身の力で描き出したのは今から30数年前のことです。

モモの打ち出した対抗策は果たしてなんだっだろうか、これから考えて見たいと思います。

200  : 「モモ」とはいったい何なのか、早急に結論を出すのではなく、すこし道草を楽しんで見ましょうか。

アリスさんは旅がお好きですね。旅には二つの種類があると思います。それは目的地のある旅と、目的地のない旅です。

目的地のある旅というのは、典型的なのは、出張旅行でしょう。どこそこの土地に行って、どこそこの会社を訪問し、だれそれさんにあって契約を取ってくる。そんな旅が出張旅行ですね。アリスさんも私も、現役時代には、たくさんの出張旅行をしました。

出張旅行においては、途中の移動時間はまったくの無駄です。短ければ短いほどいい。乗り物は速ければ速いほどいい。途中の景色など見る暇もなく、新幹線の中でひたすらパソコンのキーボードを叩き続ける・・・それが、現代の出張旅行ですね。社会もひたすらそのような目的に沿った交通網を発達させてきました。

もう一つの「目的地のない旅行」を何と呼びましょうか。目的地がないといっても、旅をするわけですから、一応の目的地はあります。けれども、目的地に行ったからといって、何かしなければならないことがあるわけではありません。この旅は旅をすること自体が目的なのです。

突然思い出しましたが、昔リーダーズ・ダイジェストという雑誌で、こんなエピソードを読みました。アメリカのある土地を車で旅行していた夫婦が道に迷い、畑にいた土地の人に道を尋ねました。すると、その人はある道を教えてくれました。二人が教えられたとおりに行くと、なぜか道は次第に山の中に入っていきます。「おかしいなあ」と思いながらなおも車を走らせると、ついに道は見晴らしのいい高い崖の上に出て、行き止まりになってしまいました。二人は、教えた人が道を間違ったのだと思いましたが、そこから見える景色に釘付けになってしまいました。はるかに見える地平線にちょうど夕日が沈むところでした。二人はその美しさに圧倒され、言葉もなく立ち尽くしていました。夕日が沈むのを見届けてから、二人は道を引き返しました。すると、先ほどの農夫が待っていました。「夕日を見ましたか」と農夫が聞くので、二人が「とても素晴らしかった」と答えると、農夫は「あなた方にぜひあの光景を見てほしかったのです」と言って、今度は正しい道を教えてくれました。

なんとものどかな話ですが、本当の旅――目的地のない旅――というのは、このような旅の途上での出来事を楽しむのが目的なのです。

人生の旅も同じです。目的地を追いかけることばかりに夢中になって、途中の出来事はないほうがいいといわんばかりの人生もあれば、途中の出来事の一つ一つに愛情のこもった眼を向け、小さな花に感動し、小鳥と言葉を交わし、出会ったひとりひとりと心を通わせる――そういう人生もあります。

現代社会――灰色の男達に支配された社会――は、人生を出張旅行のようなものにしてしまいました。これに対して、モモは、人生とは何かを達成するためのものではなく、目的地のない旅のように、生きること自体に意味がある、ということを主張しているのではないでしょうか。

201 アリス:旅の話題でいつも思い出すのは修学旅行のことです。私達の小学校の修学旅行は神戸から奈良への一泊旅行でした。小さなリックにお菓子や蜜柑を詰めてもらい、お小遣いも持たせてもらって、期待に胸を膨らませて出かけました。東大寺、若草山など回って帰ってきたのですが、まったく面白くなかったというのがその印象でした。唯一、面白かったのは旅館で寝る前に枕を投げ合って遊んだ一時でした。先生の指示に従って付いて歩くだけの旅行はこんなつまらないのかと思いました。それ以降、中学も高校の修学旅行もバカらしくて参加しませんでした。その後、この手の旅行は大嫌いで、団体旅行、添乗員に引率されての海外などまったく興味がわきません。その意味で小学校の修学旅行は私に人生に大変教育効果を与えたことなります。
旅そのものが嫌いではなく、友達や一人で、徒歩旅行や山旅、海外と楽しみ、その経験は私の財産でもあります。

猫さんの目的のない旅、目的のある旅の分類の他に、その旅を自分が選んで自分のやり方で旅しているか、他の人が設定した目的ややり方で旅しているかの分類もあると思います。

旅そのものが目的、そこで起きることを楽しみ味わいながらするのが、本当の旅ですね。

猫さんのおっしゃるように、モモの世界と灰色の男達の世界は、旅に譬えるとわかりやすいですね。私が小学校の就学旅行はおそらく灰色の男達が企画、実行したのでしょう。私には灰色の思い出です。

モモが終始実行したのは、味わうこと、「聞くこと」でした。これには何の目的もありません。そのこと自体に意味があるのだと思います。

202  : 私は修学旅行には一度も行ってません。小学校の時は戦争直後で、修学旅行はありませんでした。中学校の時は、旅行の直前に病気になって取りやめました。高校の時は、アリスさんと同じで興味がなく、最初から申し込みませんでした。結局、私の旅行の大部分は、大学時代の帰省旅行と、会社に入ってからの出張旅行です。

もちろん、旅が目的の旅も何度かはしました。若いときには子どもを連れて夏休みに、50歳を過ぎてからは妻と二人で、何度か旅行をしました。それはいずれも心の中の大切な記憶になっています。

けれども、私はなぜか旅行をすると人間生活の「負の側面」ばかりを見てしまう傾向があります。その一例を「A14 アロハ・オエ」の中に書いています。海外旅行でも、いろいろな土地に行けばたくさんの珍しく美しい風景に出会うことが出来ますが、私はなぜかその美しさはうわべだけのもので、この地球の上に悲しみのヴェールが掛かっていない場所はどこにもないと感じてしまいます。表面的に美しければ美しいほど、その悲しみは深くなります。

それで、私は最近は旅行をしなくなりました。旅行をしてもしなくても、私の心には地球の全体が入っています。その美しさも、悲しさも、全部まとめて入っています。いま、私は、私の心の中の地球を癒すのに一生懸命です。

人は旅をするとき、行く先々で何を見るのでしょうか。それは「自分自身の心」だと思います。人は、旅をしながら、自分の心を鏡に写して見ているのです。

人生の旅も同じだと思います。私たちは、この地球という世界に生まれてきて、そこに実体化した自分自身の心を体験するのです。ですから「人生は生きることそのものに意味がある」のです。

私は「人生は、何をしたかが問題ではなく、どんな風に生きたかが問題なのだ」と思っています。どんなに華麗な人生であろうと、どんなに悲惨な人生であろうとかまいません。その人生の中で、美しく生きる努力をすれば、自分の心が美しくなります。醜く生きる努力をすれば、自分の心が醜くなります。

どちらがよいか悪いかという問題ではなく、これは宇宙の法則です。自分がどんな心の人間になりたいか、それを追求するのが、人生という旅の目的だと思っています。

203 アリス:私は猫さんのように旅行の中にあまり「負の側面」を見ません。スリに遭ったり、宿が取れなくて野宿しなけらばならないかと思ったりしたこともありましたが、幸いなことに、まずまずのハッピーエンドに終わっているからかも知れません。
ですから、余裕ができればまた旅をしたいと思っています。漂泊への憧れはまだなくなっていないようです。
それは絵を描くのと同じようにまったく自分の好きなようにできるからです。

旅とは直接関係がありませんが、近頃は、美しい景色、美人を見ると、なぜか、憂いのようなものが心をよぎるようになりました。この感情は猫さんと共通するものがあるかもしれません。

またモモに話を戻しますと、彼女がなぜこの世にいるのかよく分からないのですね。浮浪児同然のモモを地元の人たちがどこかへ収容しようとモモにいろいろ質問していますが、出所も年齢もはっきりしません。ここで生きているだけで十分といった感じで存在しています。
そこには目的のようなものが存在しないようにも見えます。
「人生は生きることそのものに意味がある」ということになります。何か追求することが必要なのでしょうか?

204  : <ここで生きているだけで十分といった感じで存在しています。そこには目的のようなものが存在しないようにも見えます。>

本当にそうでしょうか。モモが存在しているのは、作者がそこにモモを置いたからですね。モモの存在目的は、作者がそこにモモを置いた目的そのものだと、私は思います。

では、私たちの存在目的は何でしょうか。それは神が私たちを創造した目的そのものです。それは、「生命のあらゆる姿を具体的に表現すること」だと私は考えています。ですから、私たちがどんな人生を送ろうと、それは神の設定した目的に沿っているのです。

<何か追求することが必要なのでしょうか?>

必要かどうかではなく、したいかしたくないかの問題だと思います。何も追求したくない人は何もしなくていいのです。そのような人生も、生命の表現には違いないのですから。

神は私たちがどんな人生を送っても満足しています。問題は、私たちが自分の人生に満足するかどうかなのです。

205 アリス:私は若い頃から、自分は一体何をやりたいのだろうか、ということを追求してきました。これにははっきり答えがありませんでした。天命のようなものを自覚してそれに邁進すれば、どれだけすっきりした人生が送れるのではないかといまだに思っています。その意味で、床屋のフージー氏と大差ありません。
その代わりに、何か仮の目標を作って生きている感じがします。私にとって大切なことは旅行の時と同じで、自らが設定した目的に自分のやり方でやることでですが、これに加えて、自ら意図しない様々の事柄を行わねばならないので、時間がどんどん埋まってしまうというのが実態なのです。そのような人生は、そのように自分が作り出しているのでしょう。
「生きていることそのものが目的」といえば、高齢化時代に、まさしくそのようような人が増え続けています。

一方、若い人たちは、昔の若者以上に、何をやりたいかがわからない人が多いのではないでしょうか?村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を今読んでいますが。主人公にそんなタイプの人間が出てきて、妙に私達の心を捉えています。好きなことをやりなさいといわれても、何が好きなのかわからない。

猫さんの場合、<私は、私の心の中の地球を癒すのに一生懸命です。>ということですが、一般に一生懸命にやれることが見つからないことが多いですね。

206  : <一般に一生懸命にやれることが見つからないことが多いですね。>

一生懸命やることが見つからないという人は、「何かよいことが見つかったら一生懸命やろう」と思っているのではないでしょうか。けれども、一生懸命やるかやらないかは、それが何であるかとは関係ないことです。どんなによいことでも、どんなに悪いことでも、一生懸命やることはできます。もちろん反対に、何事でも中途半端なやり方をすることはできます。

一生懸命にやれることを見つけるコツは、いま出来ること、あるいは、いましなければならない羽目になっていることを一生懸命にやることだと、私は思っています。「いま」一生懸命にやらなかったら、「一生懸命にやるとき」というのは永遠に来ないと思います。

<好きなことをやりなさいといわれても、何が好きなのかわからない。> 

好きなことについても、私は同じだと思っています。何もしないで好きなことがわかるわけはありません。好きなことがわからない人は、何でもいいからたくさんいろいろなことをすることです。しかも、それを中途半端にではなく、一生懸命やることです。そうすると、自分自身の感覚が磨かれてきて、自分の好きなものが何であるかが見えてくる、と私は考えています。

もう一つ大事なことは、「好きなこと」あるいは「一生懸命になれること」には、最終回答はないということを知っておくことです。人間は絶えず変化あるいは成長しています。昨日のあなたと今日のあなたは同じではありません。したがって、昨日好きだったことも今日はもう好きではないかも知れないのです。ですから、「いまやれること」の中で一番好きなことをすることが大事なのです。答えは「今の瞬間」にしかないということを心の片隅にとどめておいてください。

207 アリス一生懸命にやれることを見つけるコツは、いま出来ること、あるいは、いましなければならない羽目になっていることを一生懸命にやることだと、私は思っています。「いま」一生懸命にやらなかったら、「一生懸命にやるとき」というのは永遠に来ないと思います。
このアドバイスを守って行きたいものです。
エンデは『モモ』の中で道路掃除夫ペッポにこう言わせていますね。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな?つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきだけ考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」また、ひとやすみして考え込みながら
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな。たのしければ仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらなければだめなんだ。」
(前掲書)

これは猫さんと同じだと思います。

このことに異論があるのではないのですが、不思議なのは人間は(他の生き物も)そのように生まれ付いていないように思えることです。これは前の対話でも取り上げたのですが、退屈する、好奇心が働く、何かやりだすーーという一連の動きが始まり、安定しないのです。
赤ん坊を見ていても、動物を見ていてもそうですし、神話の世界ではイブやパンドラがそうですし、童話の世界でもそうです。『不思議の国のアリス』でも、退屈から始まり、好奇心に動かされ物語が展開します。
先に取り上げた床屋のフージー氏がそうでした。現状に満足しない状態が出来て、何かを追い求め始める。
これは命そのものの性格のように思えるのですが、これについては猫さんはどう思われますか?

208  : おっしゃるとおり、人間にも他の生物にも「好奇心」という仕掛けが組み込まれているように見えます。先日家出して大冒険をしてきた私の家の猫も、元はといえば好奇心にかられてつい外に出てしまったということだと思います。

けれども、もしアリスさんが好奇心だけしか見ておられないとしたら、アリスさんは生命の半分しか見ておられないと思います。好奇心はあらゆる物事を始める動機になります。好奇心がなかったら何も始まらないでしょう。では、物事を完成させるのは何でしょうか?

もし、好奇心に駆られて始めた物事が、好奇心が他に移ったために終わるのであれば、そこには中途半端の食べかけの残飯が残るだけで、何事も達成できないでしょう。好奇心は何かを始めるために必要です。けれども、好奇心だけでは何事も達成できず、完了することもないと思います。

好奇心で始めた物事を完成まで導くのは、固い言葉で言えば「献身」、つまりその物事に一生懸命に取り組むことです。何事においても、一生懸命に取り組めばおもしろさというものがわかってきます。また同時に、これは自分が本当に取り組むべきことであるかどうか、ということもわかってきます。そしてやがて、これについてはもう終わらせてもよい、と自分で判断するときが来ます。つまり一生懸命に取り組めば、それを卒業するときが来ます。

私は、好奇心で物事に触れている間は、その物事がその人に影響を与えることはないと考えています。けれども、どんなことであれ一生懸命に取り組むと、そのことは取り組んだ人に何らかの影響を与えます。そのようにして人は成長します。

いままで見たことも聞いたこともないような物事に頭を突っ込んでみようかという気にさせるのは好奇心です。そして、それを消化し、自己の栄養にするのは「献身」――一生懸命に取り組むこと――です。生命にとっては両方が必要なのだと思います。

209 アリス:猫さんの家の猫についてはまた別に取り上げたいと思いますが、私の率直な疑問は何故退屈があり、好奇心があるのかということです。これは生きていることの本質にかかわることで、床屋のフ−ジー氏もそうでしたし、生き物に共通の物のように見えます。猫さんの、好奇心が起きてからの「献身」は理解できますが、それ以前の所を問題にしているのです。、ちょっと議論がかみ合わないようです。

210  : 議論がかみ合わないのは、私が退屈と好奇心について、疑問を持っていないからだと思います。

私は、神が「神の子」たちを生み出したのは、生命のあらゆる表現を探求し、体験するためだと考えています。

ところが、もし退屈がなかったら、「神の子」たちは同じ状態を永遠に続けることに満足してしまうでしょうし、もし好奇心がなかったら、何も始めることが出来ない、ということになります。

それでは、「神の子」たちは本来の使命を果たすことが出来なくなってしまいます。そこで、神は「神の子」たちのすべてに、退屈と好奇心という仕掛けを組み込んだのだと思います。そういう意味では、アリスさんがおっしゃるように、退屈と好奇心は生命の本質なのだと思います。

付け加えれば、退屈と好奇心は神そのものの性質だと思います。神は根源的な存在ですから、神以外には何も存在しません。したがって神自身が何かを自分で始めなければ何も起こらないことになります。神は何も起こらないという状態に退屈したのでしょうね。そこで、ありとあらゆる存在の形態を探求することにしようと考えたのだと思います。これは神の好奇心そのものです。

もし神に好奇心がなく、退屈もしなかったとしたら、「神の子」たちが生みだされることもなく、無数の宇宙が生まれることもなく、その中で無限の変化に富んだ生命の世界が展開されることもなかったでしょう。

これでアリスさんの疑問に対する答えになっているでしょうか?

211 アリス猫さんのお返事にある意味で満足しています。<変化に富んだ生命の世界が展開される>源泉がここにあると思います。それを前提とした上での話ですが、これによって、アダムとイブは天国から追放され、パンドラは不幸を撒き散らし、フージー氏は灰色の男につけこまれて、ろくでもない成り行きとなるので不思議に思うのです。もちろんこれが進歩発展の原動力という考えもありますが、あまり幸せになるとも思えませんね。
一方、道路掃除夫ペッポの場合は、今やっていることに没入していきます。猫さんの「献身」ですが、同じ命のあり方でも様相が異なります。不思議だなーと思うわけです。

212  : <あまり幸せになるとも思えませんね> ほんとにそうでしょうか。

たしかに、世界あるいは人生のごく一部を見れば、不幸や悪と思えるものは無数にあります。けれども、生命の全体を見ることができるなら、不幸と見えるものも、悪と見えるものも、別の姿をもって現れます。

たとえば、エンデの描いた世界に灰色の男達がいなかったら、私たちはモモという魅力的な少女を知ることもなかったのではないでしょうか。そういう意味では、モモの出現は灰色の男たちに依存しているのであり、モモと灰色の男たちは一体なのです。それは一枚の紙の裏表なのだと、私は思います。

「人生万事塞翁が馬」「禍福はあざなえる縄のごとし」と言いますが、生命の世界は、白と黒の二重螺旋でつくられており、白から黒へ、黒から白へ、絶えず行き来しながら、無限の螺旋階段を登り続けるのだと思います。

07/12/9

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