アリス、アリスに会う  183−198

183 アリス<意識の中の個々の因果関係を知ることは不可能だし、元々そのような単純な因果関係は存在しないと思います。>
そのために意外なことが起きるのですね。

この対話は<A 歯が痛い。B 金がない。C 恋人が心変わりした。これを不如意だとしますと、
A’歯痛が治った。B’金が出来た。C’恋人とよりが戻った。これを如意とします。
これに対する猫さんの解決策をお聞かせいただけませんか?

という話から始まりました。これらに対しては「ペニー・ガム法則」と言ったものは無いのですね。

『鏡の法則』という本をまだ読んでいないのですが、意識の中に「ペニー・ガム法則」のようなものがあるのかなと思っていました。

意識をいきなりそこへもって行けばいい。あるいは、因果関係を考えるより、意識の霊性を回復すればよい。これが猫さんのお考えですね。

184  : <あるいは、因果関係を考えるより、意識の霊性を回復すればよい。これが猫さんのお考えですね。>
私の考えは、そのとおりです。

ホームページの中に「E3. 白鳥の湖」というのをアップしましたので、それを読んでみてください。ちょっと変わったたとえですが・・・。

185 アリス:「白鳥の湖」を読ませていただきました。猫さんのたとえ話はいつも素晴しいですね。自分が自分に魔法をかけていると言われれば、本当にそうかもしれない思いました。問題はそれをどうやって解くか、その方法も示されているのですが、要はその実行にあるのだと思います。
猫さんの最も基本になるのが夢から醒めるというテーマですね。
私もいつも悪夢を見ているので、魔法(夢)から醒めて、しみじみと喜べる日が来ればと追っています。
色んな事を一度にお聞きしたので「ありがとう。愛しています。ごめんなさい」と「魔法解除宣言」をどう落ち着かせるかちょっと時間がかかりそうです。

186  : <要はその実行にあるのだと思います。> そのとおりですね。それは私にとっても同じです。こういうことを「知っている、わかっている」というだけでは何にもなりません。

「ありがとう。愛しています。ごめんなさい」は魔法をとく呪文だと思います。私は、魔法解除宣言をすると、この呪文が唱えやすくなるように感じます。両方を繰り返し唱えて、心の中に呪いのエネルギーがまったくなくなるようにする必要があると思います。呪いのエネルギーのかわりに、祝福のエネルギーがいつも心を満たしているようになれば、その人の周りで世界が変わり始めます。世の中でどんな事件が起こっていようとも、それは心に祝福のエネルギーが満ちている人には、近づきません。

私は、世界を近景、中景、遠景に分けて考えています。近景というのは、自分自身のことです。自分の思考、感情、それに肉体、それが近景です。中景は、自分が直接触れる世界です。家族、友人、職場、隣近所などです。遠景というのは、それ以外の世界です。それは、私たちの生活の背景として存在していますが、よく考えてみると、私たちはそれを情報として知っているだけで、それに直接触れるわけではありません。その中の一部が、時折中景の中に入ってくるので、私たちは遠景が実際に存在していると信じていますが、それが本当に存在しているかどうかは確かめようがありません。なぜなら、直接触れて確かめたら、それは中景になるからです。

私たちが、遠景の中に住むことはありません。私たちが実際に住むのは、近景と中景の中です。ですから、私たちの心が変わるとき、最初に変わるのは近景と中景です。遠景――つまり世界全部――を書き換えるのには、時間がかかり、エネルギーもいるでしょう。けれども、私たちが実際に体験するのは近景と中景ですから、それが変われば十分です。

私たちは、沃野に荒地を作って住むことも出来れば、荒地の中にオアシスを作って住むことも出来ます。周りがどんなに豊かな緑野であっても、自分の住む土地が荒れて索漠としているなら、その人はやっぱり不愉快な生活を強いられるでしょう。まず自分自身(近景)を緑野に変え、自分の土地(中景)を緑野に変える・・・そこから世界の変化は始まっていくのです。

187 アリス:<自分自身(近景)を緑野に変え・・・>という順番ですね。
全世界に責任を負うのですが、取り合えず足元から。

この前、お会いしたとき詩篇を思い出そうとして、上手く行きませんでしたが、(覚えたのはもう55年も前のことです。)帰って調べるとこんなものでした。
詩篇23篇
  ヱホバはわが牧者なり、われ乏しきことあらじ
  ヱホバは我をみどりの野にふさせ、いこいの水濱(みぎわ)にともないたまふ
  ヱホバはわが霊魂(たましい)をいかし 名(みな)のゆえをもて
  われをただしき路にみちびき給ふ

この後、美しい詩句がつづきますが、ダビデが神への絶対の信頼を表すものだと思います。猫さんの緑野はこのイメージを思い出しました。ヱホバを魔法から解かれた(魔法を解く)自分と置き換えてもいいのかもしれません。

ちょっと場違いかかも知れませんが、近景、中景、遠景という順序について、おや、これは絵を描くのと全く逆だな!と思いました。風景画を描くときは遠景から攻めて行くのがごく一般的だからです。

いづれにしろ、自分が描くとおりになるのは絵も人生も同じなのでしょうが、なかなか上手くいきませんね。

188  <エホバはわが牧者なり・・・>詩篇の中でも最も美しい有名な詩です。

<風景画を描くときは遠景から攻めて行くのがごく一般的>・・・・そのせいではないでしょうが、私たちは、遠景や中景ばかりを気にして、それを変えようと躍起になります。けれども、近景(自分自身)を変えようとは、なかなか思いつかないようですね。

本当は、中景も、遠景も、自分自身の影なのですから、直接それを変えようとしても出来ないのです。自分を変えれば、宇宙という鏡に映った自分の影である中景や遠景が変わるのです。

宇宙は鏡ですから、それを呪えば、その呪いは全部自分に返ってきます。世界を祝福すれば、その祝福は全部反射されて自分に返ってきます。それが「鏡の法則」ですね。そこに働くのは物理的な因果関係ではありません。「鏡の法則」自体が因果律なのです。

189 アリス:「鏡の法則」を十分理解したわけではありませんが、以前、参禅した時、師家から「因果同時だよ」と言われたことを思い出しました。一切説明抜きで、ポツリとそう言われ、ハットしたのですが、これと「鏡の法則」と同じものかもしれません。

190  : <因果同時>ということですが、私はむしろ因果は同時ではなく、逆だと考えています。私たちは、自分にとって都合のよい人や出来事に出会うとよい感情を抱きます。都合の悪い出来事に出会うと悪い感情を抱きます。つまり出来事が先で感情が後だと思っています。けれども、本当は、感情が先で出来事があとなのです。心の中に悪い勘定を抱いていると、それが外の世界に悪い出来事を生み出すのです。これが「鏡の法則」だと、私は考えています。

時間というのは、霊である私たちが体験する幻想の中で最も巧妙に創られた不思議な幻想だと思います。私たちは時間というものを、絶えず一方的に流れてゆく川の流れのように感じています。その時間の流れに従って、さまざまな出来事が起こってきます。それは避けようのない一本道のように感じます。

けれども、本当はそうではありません。高次元の宇宙の中にあらゆる可能性が現実に存在しています。私たちは、もぐらのように、この高次元の立体の中を穴を掘って進んでいきます。それはまっすぐなこともあるし、曲がりくねったり、ループしたり、交差したりします。けれども、トンネルを掘って進む私たちは、自分が掘ってきたトンネルを一本のまっすぐな道だと思い込むのです。

おそらく、心の中によい感情を持っているとよい出来事が起こる方向に道を曲げ、悪い感情を持っていると悪い出来事が起こる方向に道を曲げるのでしょうね。もちろん、まったく無意識にですが・・・。

191 アリス:猫さんの喩えに対応するものかよく分りませんが、因果の流れを逆転させている例は『鏡の国のアリス』は色んな形で出て来て私には馴染みのものです。ケーキは切って配るのではなく、「切る前に配ります」(7章)  それはそれとして、猫さんのトンネルを掘る例を考えると、そもそもあらゆるものが既に存在すると言うことにしなければ、成り立たない話ですね。その中に私というものがいて、時間の流れの中で取り出して、悲しんだり、喜んだりしているように思います。
悪い感情を持って悪い道を選び取っていると気がつけばいいのですが、なにやら自分を超えた因果法則があって、どうしようもないと思いがちです。

192  : <そもそもあらゆるものが既に存在すると言うことにしなければ、成り立たない話ですね> そのとおりですね。すべての可能な現実は既に存在しています。ただ、それは私たちが感知できる三次元の物理世界の中ではないので、私たちが気づかないだけです。私たちは、その高次元の現実の中から、自分の感覚で感知できるものだけを切り取って、それによって自分が体験した世界のイメージを再構築しているのだといえます。

アリスさんは、真実だけを写した写真の断片的映像を並べて再構築することで、まったく違う虚構の世界を作り出すことが出来るという話をご存知でしょう。私たちが、真実の存在から切り出して再構築する世界というのもそういうものではないかと思います。

そのことに気づかないので<なにやら自分を超えた因果法則があって、どうしようもないと思いがちです>ということになるのですね。それは、私たちが「自分」だと考えているものが小さすぎるせいだと、私は考えています。

193 アリス<アリスさんは、真実だけを写した写真の断片的映像を並べて再構築することで、まったく違う虚構の世界を作り出すことが出来るという話をご存知でしょう。>
コラージュという方法ですね。絵画の世界では、100年近く前から、実物の新聞や布など画面に貼り付けることから始まって、写真の切り抜きなど組み合わせることへ移行したはずです。
シュールレアリズムのお得意とするところとなりました。
しかし考えてみると芸術は古くから真実っぽいものをコラージュしているのだと思います。
私たちの日常も、猫さんのおっしゃるように、自分の都合に合わせて、切り抜き、再構築して生きている現実なのですが、それになかなか気づかない。
自分の再構築した世界が、それなりの多様さと大きい広がりを持っているので、自分はその中の小さな一点になってしまっているというのが実態ですね。つまり、
<「自分」だと考えているものが小さすぎる>
逆に、これだけ多様で大きい世界を描き出している力に目覚めると「自分」が一挙に広がるはずですが・・・・

194  :なかなか一挙に広がるという具合にはいきませんが、 「自分」を広げるのに役立つと私が感じている方法があります。

それにはまず、自分が不死の存在であることを認めてください。認められなかったら、仮にそう想像するだけで結構です。

そして、その永遠の存在であるあなたが、この地球の上に何百回も生まれ変わって、さまざまな人生を送ったのだと考えてみてください。ある時は男になり、ある時は女になり、ある時は殿様になり、ある時は家来になり、ある時は武士になり、ある時は農民になり・・・・この考えが身体に染み込んでくると、地球の上で営まれてきた――あるいは現在営まれている――あらゆる人生が、みんな自分の姿であるかも知れないと思えるようになります。

いま、どこかで起こっている殺人事件の犯人は、あなたの過去世かも知れないし、殺されているのは、あなたの未来世かも知れません。詐欺まがいの行為で巨富を積み上げた何処かのお金持ちも、社会の片隅で誰にも知られずにひっそりと飢え死にする老人も、みんなあなた自身の平行人生であるかも知れないのです。

具体的に過去世や平行人生を思い出すわけではありません。私は、そういう必要性はまったくないと思っています。ただ、そういう可能性があるということを受け入れることが出来るようになるだけで意識は変わります。少なくとも、一つの肉体に所属した視点だけから世界を見るということがなくなります。「あれも私だ、これも私だ」と思えるようになれば、少しだけ「自分」という意識が広がったといえるのではないでしょうか。

このような見方になじんでくると、心の中で「自分」という狭い領域を守っていたバリヤーが少しずつ低くなっていきます。これが、自分という意識を拡大していくための第一歩だと、私は思っています。

195 アリス:一切のものが自分だと思えば、私というものが消えてしまい、今、自分だと思っているものを中心に起きている苦しみや喜びも消えてしまうのでしょう。少しづれるかもしれませんが、其角の句を思い出しました。
   我がものと思えば軽し傘の雪

「ごめんなさい」という言葉の中に、それが自分の責任だという響きが良く出ていますね。
悪いことをした子供に「ごめんなさい。お母さんがわるいのよ。」といっている場面のように、自分が生んだ責任を表しているのだと思います。

これに関連しているのかもしれませんが、この世にあらゆるものが存在し、自分自身多くのことを体験していくのですが、以前から疑問に思っていることのひとつに、人は何故、映画や小説やお芝居を好むのかということです。これは明らかに、さまざまな世界を自分の中にとりこもとしているようですし、旅行、登山と言った冒険を含む実体験スタイルもありますが、これらも自分という意識を拡大しているのでしょうか?

西洋では、聖職者はお芝居を見てはならないとされていた時代があったようですが、私の周りには観劇好きな人が沢山いますので、何故だろうといつも思うわけです。

196  :<人は何故、映画や小説やお芝居を好むのか>ということですが、私は一言で言えば、数多くの人生を疑似体験しようとしているのだと思います。自分の実人生という一つの人生だけでは足りなくて、可能な限りたくさんの人生を体験したいと思っているのだと思います。

私はこの様子は、霊である<高次の人間?>がしていることと同じであり、それはまた<最高次の人間!>である神がしていることと同じだと思います。

神の遊びは、生命のあらゆる姿を現実化しそれを体験することです。神は、そのためにたくさんの霊を生み出し、その霊の体験を通じて「人生」を体験します。ですから、神は同時並行的に、たくさんの人生を体験しているわけです。

その「霊」が本来の私たちなのですが、霊はさらに物質世界という特殊な世界をつくり、その中に自分の分身である肉体を送り込んで、その肉体を通じてたくさんの人生を経験しようとします。

私は一人(?)の霊が、同時並行的にたくさんの肉体を動かしていて、たくさんの人生を経験していると思っています。それが、時々、私たちの意識の中に漏れ出してきて、私たちはそれを、自分の過去世であるとか、平行人生であるといった風に感じるのです。

そしてさらに、その肉体の一つである私たちは、小説や芝居や映画といった形で、たくさんの人生を同時並行的に体験しようとします。人生のツリー構造ですね。なんとも貪欲な体験欲です。私はこれが神の本性だと思っています。

197 アリス:<神の遊び>という考えは、7年前、猫さんに霊的なお話を伺った最初の日に伺ったもので、インドの古い考えに「すべては神の遊び」という考えがあるというお話を聞きながら、私はシバ神が踊る姿を頭に描いていたのを昨日のように思い出すことができます。前の対話『自分を探すアリス』にも何度か出てきますね。

観劇や小説を読んで色んな体験をしているだけではなく、われわれの味わっている一切合切の行為が神の遊びだと考えるのは、今の私には受け入れること可能です。
猫さんとご一緒に色んな言語を学ぶのもそのひとつであろうと思います。

この前ご一緒に読み終えたミヒャエル・エンデの『モモ』には遊びのイメージが上手く出ています。
遊びとは本来楽しいものですが、楽しくない遊びをよく選びますね。
お祭りのような高揚を味わうために、われわれは、面白くない、つらい事柄を選んでいるのでしょうか?そして、癒されない渇きのように、この遊びの高揚を求める姿は壮観と言うしかないといえます。「灰色の男」たちの陰謀が働いて、あらぬ方向に向かっているとエンデは見ているわけですが、猫さんは「灰色の男」をどう見られますか?

198  いま地球に起こっていることは、大きく見れば、「愛のエネルギーを極限まで減らしていったら何が起こるか」という神の「遊び」あるいは「実験」であると、私は考えています。

<お祭りのような高揚を味わうために、われわれは、面白くない、つらい事柄を選んでいるのでしょうか?>

おもしろくない、つらいことが起こるのは、愛のエネルギーを減らしたからです。これに対し、高揚感を求めるのは、愛のエネルギーにみたされたいという欲望の表れだと思います。けれども、おもしろくない遊びを克服することによって得られる高揚感は一時的なもので、本当に愛のエネルギーが増えたわけではないので、すぐに虚無に変わります。そのため、次から次に、新たな高揚感を追いかける結果になるのです。

それも一つの遊びですから、それを続けたければいつまで続けてもいいのですが、本当に解決を求めるのであれば、愛のエネルギーで心をみたすことに取り組む以外に方法はないと思います。

エンデが描いた灰色の男達も、この「愛エネルギー」に対する渇望の象徴だと思います。これは、愛エネルギーの欠乏による飢餓感に悩まされているけれども、それが何による飢餓感なのかに気づいていない人の心の象徴なのです。飢餓感の本当の原因を知らないので、本当の解決法がわかりません。このため、経済的、物質的な繁栄が解決法だと思い込んで、それを追い求める結果、ますます激しい飢餓感に追い立てられるようになるのです。

07/11/17


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