アリス、アリスに会う   18−25

18  <お金持ちになると不幸になる事例がでたあたりでわからなくなってしまいました> お金持ちになると不幸になるわけではありません。お金と幸不幸とは関係がないということです。

 祈りがなぜ有害かということについて、お話します。それは私たちが祈りとは「神様にお願いすることである」と考えているからです。そして、この考えは「神様とは何か」ということを誤解しているために生じます。

 私は、キリスト教をはじめ世の中の宗教のほとんどが神様を誤解していると思っています。いちばん、真実に近いところをとらえているのは仏教だと思います。仏教が「神を立てない」と言われる(言う)のは、そのためだと思います。

 近年、西洋にも「神の真実」を把握しかけている兆しが現れています。アリスさんもお読みになりましたが、ニール・ドナルド・ウォルシュという人のチャネリングによる本「神との対話」には、「法則として働く神」という言葉が出てきます。これが、神の真実を端的に表現していると思います。

 神は法則です。宇宙を成立させている根源的な法則です。このように言うと、科学的思考の発達した人たちは、物理法則が神だと思うかも知れません。物理学者や天文学者の中には、そういう考えを持った人もいます。けれども、物理法則は神の法則のごく一部分に過ぎません。もっと広大な因果の法則が目に見える宇宙と目に見えない宇宙のすべてを成立させています。神が世界を創ったというのは、このことを指しているのです。

 神は法則ですから、神にお願いして何かをしてもらうということはできません。私たちにできることは、法則に従うか、従わないかのどちらかだけです。

法則に従えば、楽な人生を送ることができます。法則に反することをすると、苦しい人生を送ることになります。それは、物理の法則でも、目に見えない世界の法則でも同じです。人間が、空を飛んだり、海に潜ったり、宇宙に飛び出したりできるのは、すべて法則にしたがって、法則を利用しているからです。法則に反することをしようとしても、労力だけ消費して、何も成果は得られません。

 私たちが法則に従うか、従わないか、それが私たちの人生を決めます。これは、私たちが変われば、人生が変わるということです。

ところが、祈りというのは「神様にお願いする」ことだと考えられています。これは、自分は変わらずに、神様に変わってください、と要求することです。これが間違いなのです。神様は法則ですから、変わりません。このような、祈りはいくら祈っても聞かれることはありません。けれども、時には、祈りが聞かれたように見えることもあります。それは、祈るという行為を通じて、自分が変わっているのです。神様にお願いしようがしまいが、自分が変われば世界が変わるのです。

この話は、「自分を探すアリス」の中でしましたね。百丈和尚の「不落因果、不昧因果」の話がそうです。狐になった老人が「不落因果」と言ったのが間違いだというのは、この言葉は、悟りを得た人は「法則に従わない」と言っているからです。百丈和尚はこれを「不昧因果」と言い直しました。これは「法則に従う」ということです。悟りを得た人は、法則に従うことによって自由を得る――これが百丈和尚の「不昧因果」です。

では、神の法則の中で、最も根源的な法則は何でしょうか。それは、心の中のものが外界に実現するという法則です。百丈和尚は「因果」という言葉を使いました。私たちも因果の法則という言葉を使います。その中には、物理学の法則も含まれます。けれども、最も根源的な因果の法則は、心の中のものが外界に実現する、という法則です。心の中に「因」があり、外界に「果」がある、これが根源の因果律です。

百丈和尚は、悟りを得た人は因果の法則をよく心得ているので、「悪い結果」を生むようなものを心の中に持たない、それによって楽な人生を送ることができるのだ、と言っているのです。

チルチルとミチルが探した青い鳥は「自分の家」にいました、それははじめからそこにいたのですが、チルチルとミチルは、遠くを旅して、にせものの青い鳥をたくさん捕まえてみるまで、そのことに気づきませんでした。

「自分の家」とは、心の中のことです。私たちも、外界に青い鳥を求め、神様に青い鳥をくださいとお願いします。けれども、青い鳥は、はじめから私たちと一緒にいるのです。私たちの心の中の青い鳥をどのように育てるか、それだけが私たちのなすべきことなのです。

次回は「心の中の青い鳥の育てかた」というハウツーの話をしましょう。

19 アリス: チルチルとミチルのお話を最後までお聞かせください。

20  はじめに、一人の女の子の話をしましょう。この女の子は当時小学生でした。太平洋戦争が終わって間もない頃、世の中も厳しい時代でしたが、そのうえに、女の子の家はとても貧しかったので、おやつどころか三度の食事さえきちんと食べられないほどでした。

 女の子は、あるとき、押入れいっぱいにチョコレートがあったらどんなに素敵だろうと考えました。女の子は、毎日毎日、そのことばかり考えました。そのうちに、女の子は、それが本当のことのように思われてきて、まるでいまチョコレートを食べているような気持ちになってきました。口の中が甘くなり、唾液が出てきて、女の子は舌なめずりをして、唾をごくんと飲み込むのでした。そして、夢心地で満たされたような気分になって、嬉しくなってくるのでした。毎日の生活は相変わらず貧しかったのですが、女の子は、毎日毎日、チョコレートを食べた気持ちですごしていたのです。

ある日、女の子が学校から帰ると、お母さんが言いました。

「押入れにチョコレートが入ってるから、食べてもいいよ。」

女の子は、押入れを開けると、思わず身体が震えました。そこには、本当に、押入れの天井に届くほど、チョコレートの箱がいっぱい入っていたのです。

 これは実話です。女の子の家は教会でした。女の子のお父さんは牧師だったのです。そのチョコレートは、米軍の放出物資で、教会からみんなに配るようにと、届けられたのでした。もちろん、押入れいっぱいのチョコレートを女の子が一人で食べることができたわけではありませんが、しばらくの間、女の子は毎日飽きるほどチョコレートを食べたのでした。

 心の中の青い鳥を育てる方法は、この話の中にはっきりと示されています。アリスさんは、お分かりになりますか。

21 アリス<女の子は、毎日毎日、チョコレートを食べた気持ちですごしていたのです。>がポイントのようですね。お話を最後までお聞きしましょう。

22  そのとおりです。すでにチョコレートがあるような、それを食べてしまったような、気分になれたということがキイポイントなのです。

 別の話では、病気で回復の見込みはないといわれた人が、好きな山登りを思い出し、山頂に到達して周りの景色を見ながら深呼吸する気持ちのよさを、毎日ベッドの中で味わっていたら回復してしまった、という話も聞いたことがあります。

 これが、キリストが言った「祈りはすでにかなえられたと信じなさい」という言葉の意味です。

 これが「頭で考えることではない」ということに注目してください。ハートで感じ、身体で味わう・・・それができたときに、世界が動き始めます。

 ほしいものを実現させるエネルギーの流れる路を作るのは理性です。けれども、その中を流れるのは理性ではなく、感情のエネルギーであり、それを味わうのは身体の細胞です。いくら理性だけでほしいものを想像していても、エネルギーが流れなければ現実にはなりません。

 心の中の青い鳥は、このように、流路を作り、その中にエネルギーを流し、それを味わうという三拍子がそろったときに、羽ばたき始めます。

 この話は、お金を手に入れるにはどうしたらよいかということから、始まりました。

 もし、お金がほしいのなら、何のためにほしいのかを考えてください。

 たとえば、ステレオマニアの人が、新しいシステムを買いたいと思ったとしましょう。そしたら、お金を手に入れる夢を見るのでなく、ステレオそのものを手に入れる夢を見てください。そして、次には、そのステレオが自分の部屋にすでに据付られている姿を想像し、心の中でその音を聴いてください。いま、現実にある自分のステレオがどんなに貧しいものであったとしても、その貧しい音に注意を向けるのでなく、心の中に新しいシステムの素晴らしい音を想像し、その音に感動してください。いまある現実のステレオは、その新しいステレオが来る前の先触れなのです。「こんなつまらないステレオ」と考えて、きらったり、馬鹿にしたりしないで、新しい完璧なシステムの前触れがいま届いているのだと考えてください。

 このようにすれば、実はお金がなくてもいいということがわかります。ほしいのはステレオであって、お金ではないのです。それは、別に自分でお金を出して買ったものでなくても、商店街の売り出しで一等賞を当てたらステレオだった、ということでもいいし、粗大ゴミの置き場に捨ててあったというのでもいいのです。

 自分のほしいものが、どこから来るかを制限せずに、ありとあらゆる通路を開放してください。最終的に自分のほしいものに注意を集中するということは、それを可能にしてくれます。お金をほしいと思うことは、ほかの可能性を全部拒否することになってしまうのです。

 心の中の青い鳥を育てる道は、頭とハートと身体のすべてで、ほしいものがすでに在るという状態を味わうこと、あらゆる通路を開放しておく、という二つに尽きていると思います。

23 アリスいろいろ例を挙げて説明してくださったので、だいぶ飲み込めて来ました。

理由がわからなくても、やってみて効果を確かめればいいことですが・・・どうしてそのようなことが起きるのか理由を説明することが出来ますか?

私は猫さんのお話を聴きながら、2つのことを思いました。

一つは、猫さんの掲げられた事例は、ユングのいうシンクロニシティ(共時性と訳されることが多いのですが、意味ある偶然の一致といった方が分かり良いかもしれません)

理由はわかりませんが、猫さんが仰しゃったようなことがあると思います。

二つ目は、ちょっと否定的な例ですが、シェイクスピアに「十二夜」という大変面白い作品があります。筋は複雑で、ここでは説明しませんが、その一部に、オリヴィア姫の執事マービリオを回りのものがからかう場面があります。どうからかったかと言えば、オリヴィア姫がマーヴォリオを好いていることを示す恋文をでっち上げ、それを、マーヴォリオに発見させます。マーヴォリオはすっかりその気になって、もう、オリヴィア姫の夫になり、館の主人となったことを思い描きます。このときのマーヴォリオの独白がこの劇の一つの見所で、かなり役者に力量が要求されます。本人はすっかりその気になっているのですが、登場人物も観客もいたずらで起きていることを知っていて、得も言えぬおかしさを誘うとともに、他人事でない思いに駆られます。

この悪戯はさらのエスカレートし、マーヴォリオを狂人扱いにして、座敷牢のような所に閉じ込め、散々な目に合わせます。劇の終盤、関係者ほとんどがハッピーな結末を得るのですが、マーヴォリオだけは捨て台詞を残して館を去っていきます。これが、この喜劇の中の塩味のように観客にはいつまでも心に残ります。

大人になると、素直にその気になれなくて淋しいですね。

24 :<どうしてそのようなことが起きるのか理由を説明することが出来ますか?

 一言で言えば、私たちが経験するのは、すべて自分の心の中にあるものだからです。したがって、むしろ願っていることが実現するのは当然のことなのです。願っているのに、実現しないということのほうが不思議なのです。

 なぜ、そういうことになるのでしょうか。

 問題を複雑にする原因の第一は、私たちが自分の心の中にあるものを、全部は把握していない、ということです。このため、私たちは、「思いがけない出来事」にぶつかり、喜んだり、あわてたりします。「思いがけない出来事」というのは、自分の心の中に、自分の知らないものがあった、ということにほかなりません。

 問題を複雑にする第二の原因は、私たちが自分の心を自分でコントロールできていない、ということです。<大人になると、素直にその気になれなくて淋しいですね>と言われるとおり、私たちは、そう思おうとしても思えない、という状態にあります。自分の心が自分の思うとおりにならない、というのが、私たちが無力になっている原因です。

 第三の原因は、私たちがそういう状態を「正常な状態」だと思い込んでいることです。私たちは、ありもしないチョコレートを食べた気分になれるのは幼稚な子どもだけであって、まともな大人はそういう馬鹿なことはしないのだ、と思い込んでいないでしょうか。

 けれども、私たちは、自分がそれであるものを経験するのであって、自分でないものを経験することはできないのです。「チョコレートを食べたものになったときに、チョコレートを食べたものを経験する」のです。ときどき話題に出てくる”I am that I am.”という言葉、そのように解釈できないでしょうか。

25 アリス:今回の対話は、歯が痛い、お金がない、恋人が心変わりしたという不如意な状況の解消のためにどうすればよいかとい問題から始め、今も続いているわけですが、猫さんのお答えは、こうありたい状態に心をもっていきなさい、そうすればその通りになるということでした。<一言で言えば、私たちが経験するのは、すべて自分の心の中にあるものだからです。したがって、むしろ願っていることが実現するのは当然のことなのです。願っているのに、実現しないということのほうが不思議なのです。>とのことです。

この猫さんのお説を延長すると、不如意も心が作り出したものだということになりますが、心は何故好き好んで(常識では考えられないと思うのですが)、不如意へと心をもっていくのでしょうか?
話の途中で、振り出しに戻るようですが、この原因を知りたいと思います。

次へ  目次へ      05・5・22