アリス、アリスに会う  164-173

164  : アリスさんは<二つの大きな障害>があるといわれて、自然科学的な因果律と仏教の縁起説をあげられましたが、私はどちらも大きな障害だとは思っていません。これらは、すべて、大きな因果律の一部なのです。大きな因果律とは、意識が原因で体験が結果であるという因果律です。キリストが説いているのも、『自分を探すアリス』の中で話題になった百丈和尚の「不昧因果」も、大きな因果律を意味していると私は思っています。

問題は「少しも疑わず」に、そうできるか、にありますね。> そのとおりです。なぜ疑うことが祈りの障害になるかというと、私たちが体験する世界は、自分自身の心の中の状態だからです。

しかも、私たちが現実として体験するのは、自分の意識の中で、「いま、現在、私はこうである」と信じている部分です。「未来はこうなる」と信じる部分も体験しますが、未来はいつまでたっても未来であって、それがひとりでに現在に変わるということはありません。つまり、「未来はこうなる」という意識をもっていたら、「未来はこうなる」と希望しているという状態を体験するのです。この「時間」のカラクリを見抜かないと、祈りというのは理解できません。

例えば、病気平癒の祈りを考えてみましょう。この時、病気の人の心には「私は病気である」という思いがあります。「自分の力では治りそうにない」という思いもあります。そこで「神様の力を借りよう」と思い祈りますが、「お願いしたから、神様が治してくださるだろう」というのは未来のことです。したがって、この人は、「神様が治してくださるだろう」という希望を持ちながらベッドに寝ているという状態を体験することになるのです。

イエスは先ほどの言葉に続けて、こういっています。「だから、祈り求めることはすべて既に得られたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」。これは、祈るときには、時間のカラクリに気をつけなさい、と言っているのです。「あすヒノキになろう」と言って、いつまでたってもヒノキになれなかったアスナロの木の話がありますが、祈りはこれとまったく同じです。

先ほどの病気の人が「治った」という状態を体験するには、現実より先に心の中で、「神様が治してくださった」と疑いなく信じられるようにならなければならないのです。

165 アリス:大きな因果律というご説明はなるほどと思いました。歴史上このことを猫さんのようにはっきりと言っている人はいないのではと思います。

そして、この大きな因果律を信じて疑わないことである、ということに異論を挟もうとは思いません。
猫さんの引用をきっかけに読んだマルコの福音書では多くの奇蹟が語られ、これらの奇蹟を信じるのであれば、人々もその力を得るのだと思います。問題は何処まで信じられるかですね。

読んでいて、こんな所に出会い愕きました。
それはイエスが自分は人によって殺され、3日後に蘇ることを弟子達に何度も語っているところです。(8章、10章)
これはイエスが十字架に架かることを自ら祈ったことになります。
キリスト教の教義の本質に触れるところだろうと思いますが、正直、奇異に思いました。

166  : イエスの十字架については、いろいろな解釈があります。二つの極端な解釈をお話します。

一つは正統的な教義の解釈です。それは神が自分の息子イエスをいけにえの羊として人間に与えたというものです。

当時のユダヤ人にとって、神に祈るときにいけにえを捧げるのは当然のことでした。また、年に一度、大祭司と呼ばれる高位の祭司が、すべてのユダヤ人の罪を許してもらうための儀式を行う習慣があり、そのときにも盛大にいけにえが捧げられたようです。

そのようなな宗教習慣の中では、神が人類の――初期のキリスト教ではユダヤ人だけが対象でした。これを異邦人(非ユダヤ教徒)にまで広げたのはパウロだといわれています――すべての罪を許すためには、特大のいけにえが必要だったわけで、そんないけにえを人間の側で用意することは不可能なわけですから、神が自らいけにえを用意してくださったという解釈です。

このような考え方を「贖罪説」と言い、もちろん細かく言えばいろいろな神学者によるたくさんの説があります。

けれども、私はこのような考え方を信じていません。なぜなら、神が人間にいけにえを要求するようなことはありえないと思うからです。ですから、私は長い間教会に行っていたにもかかわらず、キリスト教の中心教義を信じていないわけで、そういう意味ではキリスト教徒とは言えないようです。

もう一つの解釈は、近年の聖書学の研究で、聖書の中のイエスの言葉のほとんどが、本当にイエスの言葉かどうかわからない、ということがわかってきたことによるものです。結局のところ、聖書はイエスの死後100年近く経ってから、弟子達の間の伝承を集めて記録したものです。したがって、イエスの言葉とされているものも、後世の弟子たちの間に作り上げられていった伝説かも知れないわけです。最近ではついに、イエスは実在しなかったという説まで出ているようです。そのような立場で見れば、アリスさんが奇異に感じられた言葉も、単にイエスが自分の運命と使命を予知していたという架空の物語に過ぎません。

私は、それでもかまわないと思っています。誰が語った言葉であろうと、誰が伝えた言葉であろうと、誰かが創作した物語であろうと、問題はその言葉の中身が伝えているメッセージなのです。

そういう眼で見るときに、イエスが自らの意志で十字架に掛かるように見えるのは、どういうメッセージになるのでしょうか。私は、イエスが自分の「死に場所」を探したであろうと想像しています。

釈迦が死ぬときに、弟子たちを集めてこういう言葉を残したという話をご存知でしょうか。
「私が死ぬのはお前たちのためである。 なぜなら、私がいつまでも生きていると、お前たちは私を頼りにしてしまう。私がいなくなれば、お前たちは自ら悟りを開くように修行に励むであろう。私がお前たちの前から見えなくなるのはそのためである。」

イエスもこれと同じ意味の言葉を残しています。ルカによる福音書の9章40節に、悪霊につかれた息子を持つ父親が、イエスの弟子に悪霊を追い出してくれるように頼んだが出来ませんでした、とイエスに訴えた話があります。イエスは答えました。
「何と信仰のないよこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなた方に我慢しなければならないのか。子どもをここにつれてきなさい。」 イエスはこう言って子どもをつれてこさせ、悪霊をしかりつけると、子どもが癒されたと伝えられています。

イエスの言葉は何を意味しているのでしょうか。私はこう解釈しています。イエスの伝道の目的は、人々を癒すことではなく、人々に自らを癒す力を与えることだったのです。イエスは絶えずこう語っています。「神を信じるなら、誰でも、私と同じことができる。」「誰でも信じて祈れば、山をも動かすことができる。」――イエスは決して「私しかこのような奇跡は出来ない」とは言っていないのです。

けれども人々は、イエスに癒しを求めました。病気を治して貰えばそれでよかったのです。そしてついには、イエスをユダヤの王にしたて、当時ユダヤを占領していたローマ軍を追い出してもらおうと考えるようになったのです。イエスは、「私が生きていれば人々は私に寄りかかるだけで、自分の足で立とうとはしない」と考えたに違いありません。

イエスが、十字架という死に方を選んだのは、そのようなユダヤ人たちの期待に対する痛烈な皮肉のような気もします。なぜなら、十字架というのは、ローマの占領軍による死刑だからです。

イエスはメシヤ(救世主)と期待されましたが、人々が期待した救世とは、ユダヤをローマ軍の手から解放することでした。それに対するイエスの答えが、ローマ軍による死刑という形だったと考えるのは、考えすぎでしょうか。私はイエスにとっては、ユダヤがローマの支配下にあるかどうかというようなことは、何の意味もなかったであろうと考えています。それは、バーチャルな世界の一つの物語に過ぎません。イエスが人々に与えようとしたのは、バーチャルな世界からの脱出であり、バーチャルな世界の代わりに真実の世界を打ち立てることだったのです。

167 アリス:イエスの十字架についての猫さんの御説は大変ユニークで、なるほどと思いましたが、どこか引っかかるものがあります。
また、釈迦の臨終の言葉も私には初めてで、イメージには合いません。私は次のように理解しています。
釈迦が生前、常に、拠るべきものは法(ダルマ)であり、自分であって、釈迦ではないことを常に説いておられ、(法灯明、自灯明  法句経160など)臨終にもそのことを述べられたとされています。自分の説いたことで分らないことがあれば聞くように、何度も弟子達に言っておられます。死については「作られたものはみな移り行くものだ」といっておられます。(大般涅槃経)
お経は沢山ありますから、猫さんの引かれたようなものもあるかもしれません。どんな経典からの引用か分ればお教えください。

イエスについて、猫さんの説に引っかかるのは、自分でも理由が分りません。
私にはイエスは神の子というイメージが刷り込まれているので、もっと良い選択肢があったのではないかと言う気がするのです。
聖書の言葉をどう読むかは大変難しいことが次第に分ってきました。4つの福音書の差異を紹介している加藤隆著『福音書=四つの物語』(講談社選書メチエ)を今読んでいるところなのですが、読み終えて、何かより深い理解に到達するのか不安です。
お釈迦様についても、仏典は聖書より膨大なので、これを追っかけていたら時間が足りませんね。

つまり自分を拠り所にして自分で動くという域に達しないと埒が明かないのだと思います。

168  : <つまり自分を拠り所にして自分で動くという域に達しないと埒が明かないのだと思います>ということですが、実は私達はいつでも自分をよりどころとして動いています。ただ、それに気がついている場合といない場合があるというだけです。

例えば、アリスさんは、自分には「イエスは神の子だと」いうイメージが刷り込まれているとおっしゃいました。イエスが神の子だという話をアリスさんに教えたのは、昔アリスさんが通った幼稚園の神父さんだったかも知れませんが、それを受け入れ、大人になった現在まで保ち続けてきたのはアリスさん自身ですね。同じ話を聞いても信じなかった人もあるはずです。

人は、つねに、責任を他に転嫁したがります。聖書に書いてあった、とか、どのお経にあるとか、だれそれが言っているとか言いますが、それを信じて受け入れたのは自分自身なのです。「人の教えに従っているように見えるときでも、実は、人間はつねに自分自身の判断で動いている」ということを知ることが、自立するための第一歩だと、私は考えています。

仏教にもキリスト教にもいろいろな宗派があり、いろいろな解釈や学説があります。けれども、私は、そのどれが正しいかという議論は無意味だと思っています。なぜなら、私は、これらの宗教や宗説は、人間の心を掘り起こすための道具に過ぎないと考えるからです。

荒地を切り開いて畑にしようとするとき、たった一つの道具だけ持ってきて、これが最高の道具だと主張する人がいたら、どう思いますか。土地の状況は一つ一つ違います。雑草の生い茂った土地もあれば、石ころだらけの土地もあります。絶えず水が溜まっている湿地帯もあります。それぞれの状況に応じて、それを開墾する方法も違うはずです。人間の心も同じだと思います。

ですから、どのような解釈であれ、自分がいま何か感じるものがあるというなら、それに反応していればいいのです。それによってその人の心が耕されます。そうすると、次第に心が変わってきて、別の言葉に反応するようになります。そのようにして、人はそれぞれ、違った道をたどりながら、仏の教え、キリストの教えの本当の意味がわかるようになってくるのです。

169 アリス <実は私達はいつでも自分をよりどころとして動いています。ただ、それに気がついている場合といない場合があるというだけです。>
仰るとおりですね。私はいつも他に責任を転嫁している様に思います。大変ありがたいことをお聞きしました。

法句経160 「自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか?自分をよくととのえたならば、得難き主を得る。」(中村元訳『真理のことば、感興のことば』岩波文庫)

自分をよくととのえると言うことが、お釈迦さまの最後のことば
「もろもの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」(中村元訳『ブッダ最後の旅』岩波文庫)にも出てきます。

自分の感覚に正直に反応することについては、猫さんとの対話で、伸び伸びと発揮させていただいており、大変ありがたいことだと思っております。ですから、他の人が読まれるとずいぶん変な印象を与えるのではないかと思うのですが、この対話も全く自分のために行っっているので、心が変わって行く過程の記録だと思っています。

何か教義や主義や集団の力に寄りかかろうとする人間の性向が今の多くの不幸の源泉となっているいると思うのですが、ここにメスが入らないと永遠に平和はやってきませんね。他に依存して生きていると思って生きているからなんですね。

170 猫  そのとおりだと思います。私たちのふつうの意識は、自分で責任を取るのが嫌いですから、誰かの教えに従い、これはだれそれの教えだから・・・といえば、自分には責任はないと思っているのです。けれども、その教えに従うと決めたのは自分の責任だということになれば、逃げ道はありません。「責任を免れる道は絶対にない」ということを自覚することが重要だと思います。

<自分をよくととのえる>というのはいい言葉ですね。とても意味の深い言葉です。

それと同時に思い出すのが「自分を知れ」という言葉です。これを言ったのはソクラテスでしょうか。あまりにも有名で、誰の言葉か忘れてしまいましたが、「自分を知ると」いうことは、自分をととのえるための第一歩だと思います。

自分を知るということは、自分が何を信じているか、どんな価値観を抱いているか、どんなことにこだわりを持っているか・・・といったことを自覚的に知ることだと思います。ふつう、私達は、自分が持っているものに気づいておらず、無意識のうちに、それらに突き動かされて動いています。その自分を突き動かすもの――法句経的に言えば、それが自分の「主」なのでしょうね――が、何なのかということを知ることが、「自分を知る」ことだと思います。例えば、自分がこういうことが気になるのは、自分に「イエスは神の子だ」というイメージが刷り込まれているからだ、と気づくのが自分を知るということになります。

その次に必要なことは、では、この「イエスは神の子」というイメージは、今後も自分が持ち続けるべきイメージであろうか? ということを問い直すことです。そして、もし、もうその必要はないと考えたら、思い切りよくそのイメージを捨ててしまいます。そして、ではその代わりに、どんな考えを自分はもつべきなのだろうか、と考えます。これが「心をよくととのえる」ということだと思います。「自分を探すアリス」の中で、潜在意識をクリアにするという話を何度もしましたが、法句経の言っていることは、まさにそのことだと思います。 「よくととのえられた心」を主に持てば、人生が楽になること疑いなし、です。

171 アリス :問題は心をととのえる方法と実践ですね。
お釈迦様の遺言の「怠ることなく修行を完成させなさい」はこのことを示しているのだと思います。

「イエスは神の子」ということに関して少し説明を加えさせていただきますと、小さい時、牧師さんから聞いたから、そのように刷り込まれたと言うのとは少し違います。
神と私とを結ぶ中間項として、つまり霊を象徴するものとして、「イエスは神の子」としないと収まりが悪いので、自分でそのように仮託しているのです。釈迦も同じことで、かくありたいと思うもののシンボルと考えているわけです。
そのイメージはひょっとしたら猫さんと異なるかもしてませんね。

『汝自身を知れ』は、出典は知らないのですが、デルフォイにあるアポロの神殿に掲げられていることばをソクラテスがよく使ったと言う風に記憶してました。WEBで探していると
こんな記事も出ていましたので座興にご紹介します。

「この「無知の知」という考えは、「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)という、もともとはギリシアの七賢人の言葉であったものが後にデルフォイ神殿に刻まれた格言とも密接に関係する内容です。「グノーティ・セアウトン」という言葉は、「度を越すなかれ」という意味で使われ、現在のギリシアでは、酒場の店の入り口付近に張ってあるそうです。正体を失うまで飲むなよ、ということですね。こういう意味で使われているこの「汝自身を知れ」という言葉は、ソクラテスの思想を理解する上で、非常に大切です。いわゆる自己知の問題だからです」
http://matsuura05.exblog.jp/d2004-02-10

この「度を越すなかれ」という解釈はちょっと意外で、イメージが違うのですが、お釈迦が常々説いておられた、中道の道に意外と近いのではと思ったことでした。

172  : <問題は心をととのえる方法と実践ですね。>そうだと思います。そして、心をととのえる方法は無数にある、と私は思っています。結果として心がととのえられるなら、方法は何でもいいと思っています。我流でも何でもいいのです。

けれども、方法をいくら勉強しても、それだけでは心は変わりません。要は、それを実行するかどうかの問題です。方法を探すことばかりしている人は、地図やガイドブックを読むだけで、実際に旅に出ようとしない人のようなものです。パック旅行でも、リュック一つ抱えての一人旅でもかまいませんが、実際に旅に出ること・・・・それが肝心だと思います。

「イエスは神の子」というイメージについては、アリスさんのお気持ち、わかるような気がします。けれども、私は、イエスや釈迦を特別扱いする気持ちはありません。「イエスは神の子」と言ってもいいけれど、それなら「私たちも神の子」というのが私の気持ちです。心をととのえれば、私たちもイエスや釈迦と同じ状態になると思っているからです。

「汝自身を知れ」が酒場の入り口に掲げてあるというのは、おもしろいですね。「正気を保っていなさい」という意味なのでしょうが、酒呑みとしては居心地が悪いのではありませんか。私は若いときからほとんど酒は飲みませんが、学生時代に一度だけ、正気を失うまで飲んだことがあります。寮の同室の友人と飲みに行って、さあ、帰ろうと立ち上がったところまでは覚えているのですが、その後の記憶がまったくありません。気がついたら朝になっていて、私は寮でちゃんと布団に寝ていました。友人は横でいびきをかいていました。私はさっさと起きて学校に行きました。帰ってくると、友人から、「おまえ、ゆうべはたいへんだったんだぞ」とずいぶんひやかされましたが、後にも先にも、正気を失うまで飲んだのはそのときだけです。

ある意味では、人間は正気を失うまで飲んで酔っ払った霊(スピリット)なのかも知れません。ですから、「正気を取り戻せ」という言葉がデルフォイの神殿にあるのでしょう。

正気に返る方法、すなわち心をととのえる方法、は無数にあるといいましたが、その中には難しいものも易しいものもあります。また、相性がある、と私は考えています。あるひとに易しいものが別の人にはとても難しいということもあります。このあと、そんな話を少ししましょうか?

173 アリス<心をととのえれば、私たちもイエスや釈迦と同じ状態になると思っているからです。>私も同感です。ですから「イエスは神の子」でなければ、私には納まりが悪いのです。

猫さんと違って、わたしはお酒が好きなので、おそらくは猫さんの千倍はお酒を飲んできたと思いますが、正気を失った経験は意外と少なく、3,4回だろうと思います。でもその間の自分がどうであったろうかと考えると怖い気がしたものでした。

お酒の話はさておき、正気に返る方法、心をととのえる方法についてのお話を続けていただけませんか?

07/8/21

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