アリス、アリスに会う  151-163


151 
アリス <人間が本質的に戦争を好む習性を持っている>についてはこの対話を再開以来のテーマですね。戦争は広い意味でのゲームですが、猫さんは<この性質をなくさない限り、人間社会は最後は行き着くところまで行ってしまうと思います。>とおっしゃいました。
私はこの性質は治らないと思うのですが、なくすことが出来るとお考えですか?
何か実践的な方法をお持ちならお教えください。
例えば、菜食主義などどう思われますか?

152  : 私はこの性質は治らないと思うのですが、なくすことが出来るとお考えですか?
もちろん、できると思っています。それは人間の本来の性質ではないからです。人間の本来の性質とは、霊性のことです。つまり、現在の地球世界の問題を根本的に解決するためには、人間は本来の霊性を取り戻さなければならない、というのが私の考えです。

菜食をすると人間が穏やかになるというような報告はあるようですね。けれども、それは最終的な霊性回復に到達する前の予備的な運動のようなものだと思っています。

153 アリス: 菜食主義もその根拠は色々らしいですが、少なくとも、動物界の食物連鎖、食うか喰われるかの争いを避けるのに役立ちます。ユダヤ教、キリスト教の十戒、仏教の戒律、あらゆる宗教には戒律が付き物ですが、これらは霊性回復への予備的な運動と考えていいでしょうか?何か深い知恵が隠されているようにも思われるのですが、猫さんは戒律についてどう思われますか?

154  : 宗教が持っている戒律は、一般的に言えば、霊性回復のための予備運動だと思っています。「予備運動」という意味は、私は、「戒律は卒業しなければ意味がない」と考えているからです。戒律を超えたところから、本当の霊性回復の歩みが始まるのです。

私は「魂のインターネット」の中にこんなことを書きました(146p)。
――私たちは、物事を善と悪とに分け、善を行い悪をしないようにと奨めます。けれども「よいことだからする」というのはすべて偽善です。子供たちに「よいことをしなさい」と教えるのは、偽善者を育てているようなものです。そうではなくて、人への優しさや、親切や、感謝や、愛を、心の内側で感じる子供たちに育てるようにすべきなのです。感じたとおりに行動したら、結果としてよいことをしてしまう、そういう人間を目指すべきなのです。

これが戒律を卒業するということです。

菜食を続ければ、身体や心に何らかの影響がある、というのは考えられます。それはアルコールを飲んだ人が酔っ払うのと同じだと思います。人間は食べ物に影響されますから、健全な心身を養うために菜食にするというなら、それはそれで結構なことだと思います。それは禁酒運動と同じようなものです。

けれども、動物を食べることに罪悪感を持つのであれば、戒律で禁止するのは無意味です。私は外に現れた行為より、内面のこころの動きのほうを重視します。「血のしたたるようなビフテキを食べたい」と内心では思っているのに、戒律で禁じられているから食べない、というのは霊的な視点から見れば大して意味がないと思います。

155 アリス:私は戒律ではお釈迦様が禁じておられる
飲酒戒を毎日犯しており、そのことによって、私はお釈迦様とはほど遠いい人間だと時々思うことがあります。
しかし、猫さん同様、霊性回復とは余り関係が無いように思っています。
ただ、この問題を取り上げましたのは、人間世界の崩壊を食い止める深い知恵があるのではと思ったことは153でも述べたとおりです。
同じように、「祈り」に付いてもいえます。キリスト教をを含め多くの人たちが平和のために「祈り」を捧げていると思いますが、これは「しかたがない」と思われる現代の流れに対して何らかの効果があるのでしょうか?
平和だけでなく、現世利益のために、神仏にお祈りすというのは、かなり普遍的な現象ですね。

156  : <人間世界の崩壊を食い止める深い知恵があるのではと思った>とおっしゃるのは、どういう意味ですか。確かに、殺すな、盗むな、妬むな、姦淫するな、酒を飲むな・・・といった戒律をすべての人が守っていれば、人間社会の崩壊は少しは先延ばしできたでしょうね。そのことをおっしゃっているのですか、それとも、もっと深い何かがあると感じておられるのでしょうか。

祈りというのは、おそらく人類の中で最も普遍的な行為だと思います。宗教を信じない人さえ、ときには祈りの言葉を口にします。 けれども、また、祈りというのは最も誤解されている行為だと思います。<現代の流れに対して何らかの効果があるのでしょうか>ということですが、もし私たちが正しい祈りの仕方を知っていて、それを実行できるなら、あらゆる問題はたちどころに解決するほどの力があります。――と私は信じています。

けれども、私たち地球の人類は、ほとんどの人が祈りとは何かを知らず、正しい祈り方を知らず、それを知っている人も、それを実行することがほとんど出来ないために、現代の流れを変えることが出来ないでいるのです。

157 
アリス:地球温暖化、広くエコロジー問題で人類は自分の首を絞めています。戒律はそこまで考えているのではないかという気がしているのですが・・・そして、霊性回復すれはこれらの戒は達成されるのではないかと思うのです。猫さんの「予備運動」と言うより、到達点でないのかとも思います。ただ、この問題は今のわたしには手におえません。自分のことで精一杯というう感じです。

祈りについては「正しい祈り方」についての猫さんのお話をお聞かせください。

158  : 祈りに関する最大の誤解は、それが「誰か」に対する懇願であると考えられていることです。この「誰か」は神や、仏や、守護霊や、トーテムや、先祖の霊などいろいろです。共通点は、それは「自分以外の何か」であると考えられている点です。

けれども、祈りというのは、他者への働きかけではなく、自分自身への働きかけなのです。それは自分自身の意識を統一する為の手段である、と私は考えています。人間の心は内面で体験していることを外の世界に実現させる働きを持っています。内面が、統一されれば、外の世界はすばやくそれを映し出します。内面が混乱していると、外の世界も混乱します。

内面を、自分の希望する真実に統一する作業が祈りである、というのが私の考えです。

159 
アリス: 祈りは、自分ではどうしようもないと思っているとき、自分よりより大きなもの(神や、仏や、守護霊や、トーテムや、先祖の霊など)に向けて祈るは極自然だと思うのですが、猫さんの方向は違うのですね。
この対話の始めに戻って、ゆっくりと猫さんのお考えを味わってみます。

私は、エゴ=霊=神と考えてると、何に向かって祈っても同じではないかという気がしているのですが、猫さんの仰るように「統一」ということが大切だという点では猫さんと同じです。
ただ、この「統一」はなされないであろうという気がします。

祈りについて、こんな祈りをしない方が良いということはありますか?

160  : <こんな祈りをしない方が良いということはありますか?> あります。それは他人を傷つける祈りです。人を犠牲にして、自分だけ利益を得ようとする祈りは、一時的に効果があるように見えても、最終的には、すべて自分自身を破壊することになります。現在地球世界が混乱に陥っている最大の要因は、私たちが互いにそのような祈りをぶつけ合っていることにあるのです。

祈りについての、第二の誤解は、私たちが、ある特定の行為だけを祈りだと考えていることです。ほんとうは、私たちのあらゆる行為、あらゆる思考、あらゆる感情がすべて祈りなのです。私たちは毎日、24時間、絶え間なく祈り続けているのです。そう思って自分の一日を振り返ってみれば、私たちがどんな祈りをしているかということが見えてくるのではないでしょうか。

161 アリス:
<あらゆる行為、あらゆる思考、あらゆる感情がすべて祈り>というのはユニークですね。パッと視野が広がって嬉しくなりました。
それで想い出したのですが、孔子の晩年、病の伏しているとき、弟子の子路が先生に(病気が治るように)祈っても良いかと問います。この祈りはおそらく快癒のための、当時の祭礼の様式か、特別な行為なのでしょうが、今は分りません。
孔子の答えだけを申し上げますと「自分はずっと前から祈っているよ」
(述而第七)
孔子の祈りの概念が子路より広いものであったことが分ります。おそらく猫さんと同じではなかったかと思います。

子路の場合は、病気の回復でした。我々の大方の祈りは、健康、金、地位、愛情、平和(家内安全)、こんなところに尽きます。初詣での祈り、教会の祈り、・・・今でも厄神さんやお不動さんの縁日はかなりの人が出ているようです。この対話も不如意解消と言うことでスタートしました。
あらゆることが祈りだということは分りますが、今しばらく祈りらしい外見を持っているものに焦点を当てたいと思います。
典型のひとつはキリスト教の「主の祈り」は神の対する呼びかけで始まるので、猫さんから見ればおかしいですか?

162  : 私は158で、祈りは他者に対するお願いではないと言いましたが、形の上でそのような形式を取ることは気にしていません。「主の祈り」についてここで精しく論じるのは適当でないと思いますのでしませんが、どのような形式を取ろうとも、真の祈りとは何かということを理解していればいいと思っています。

では、真の祈りとは何でしょうか。それに対する答えは、キリストの次の言葉に示されていると私は考えています。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」(マルコによる福音書11章)

まずキリストが「神に祈りなさい」とは言っていないことに注意してください。「神を信じなさい」とは言いましたが、「神に祈りなさい」または「神にお願いしなさい」とは言っていません。単に山に向かって「海に飛び込めと言いなさい」と言っているのです。

祈りのキイワードは、その次の「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば」という言葉です。山に向かって「海に飛び込め」ということは簡単です。誰でも言えます。けれども、それを信じることができる人がいるでしょうか。

私たちは、山に向かって「海に飛び込め」と言ってみても、それが実現するとは思っていません。そんなことは物理学の法則に反する、という思いがあります。そんなことをしたら、いろいろな人が迷惑するという思いもあります。みんなが好き勝手に山を動かしたりするようになったら社会が成り立たないから、そんなことはするべきでないとも思います。私たちの心にはそういうもろもろの思いがあるために、「山が動いてくれたらありがたいなあ」と思うことはあっても、それが実現するという思いに心が一つにならないのです。これが、私たちの祈りが無力な理由です。

もっと切実な祈りについて考えてみましょう。病気平癒の祈りでも結構です。病気が治ればいいなあ、というのは誰でもそう思います。けれども、病気平癒のために祈ろう、という気持ちになるのはどういう場合でしょうか。二日酔いで頭が痛くても、誰も祈ろうなどとは思いませんね。一晩寝れば治るさ、と思うからです。私たちが病気のために祈ろうと思うのは、薬も効かない、手術も手遅れだという状態になって、どうしようもなくなった場合ではないでしょうか。つまり、私たちは「この病気は治らない」と信じるようになってはじめて祈ろうとするのです。

けれども、キリストの言葉は「少しも疑わずに、治ると信じたら治る」です。どこかで、180度、狂っていると思いませんか?

163 アリス: イエスのこの発言、猫さんの引用、共に、大変挑発的な話で、これには容易にお答えを返すわけには参りません。
二つ大きな障害が横たわっています。ひとつは自然科学的な因果律です。全世界が、歴史を通じて、追い求めているのが、原因ー結果の因果の法則です。これにイエスの発言は合致しません。二つには、仏教の縁起説です。これあればかれあり、因果の連鎖を前提とします。<私たちは、山に向かって「海に飛び込め」と言ってみても、それが実現するとは思っていません。>これが私達の心なのです。

猫さんの引用を機会に、マルコの福音書(私の読んだのは文語訳のマルコ伝ですが、)読んでみました。
これはイエスの奇跡の記録で、もし、イエスと共にいたならばイエスを信じたと思います。
今回読んで最も愕いたのはイエスが自分は十字架に懸かり3日目によみがえる意思が絶えず表明されていることです。イエスはそれを望んでいたことになります。ここには受動的なイエス像はありません。

問題は「少しも疑わず」に、そうできるか、にありますね。

07/7/27

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