アリス、アリスに会う   10−17

10  それでは、不如意の次のテーマ、お金の話に進みましょう。健康の次は経済、この二つは、私たちの生活の中で起こる不如意の大半を占めていますね。

 お金の問題についても、基本は同じです。人間は、自分の意識を体験する存在なのです。したがって、私たちが日常経験するすべては、実は自分の心の中身なのです。私たちは「外の世界で客観的に生じている現象あるいは出来事によって、自分が被害を受けている」と信じていますが、実は自分自身の思考によって被害を受けているのです。このことがわからないと、不如意の解決には何時までたっても到達できません。

 キリストは「祈り求めることはすでにかなえられたと信じなさい」と言いました(マルコによる福音書11章24節)。このことをお金の問題に当てはめたら、お金がほしかったら、すでに金持ちであると信じなさい、ということなのです。けれども、実際には、いま金がないという現実。このギャップをどうすればいいのかということが問題なのです。

 ここまでのところは、お分かりになるでしょうか。

11 アリス<お金がほしかったら、すでに金持ちであると信じなさい>というところがポイントのようですね。「お金が欲しい」と思うとその状態が実現するので、いつまでもお金が入らない。これは前の対話に出てきましたし、以前読んだニール・ウォルシュの「神との対話」にも何度か出てきてました。しかし、現実に金がないのに、「金持ちだ」と信じることが出来ないのが普通ではないでしょうか?

12 一つのたとえをお話しましょう。

私はときどきピアノを弾きます。私はピアノを正式に習ったことはないし、指も動かないので、人が聴いたら、私のピアノなどとても聴けたものではないと思うでしょう。けれども、弾く本人は結構楽しいのです。それはなぜでしょうか。

私のピアノを聴く人は、私の下手な演奏をまず聴いて、それから心の中に音楽を再現しようとします。だから、とても音楽にならないと思うのです。けれども、弾いている本人は、すでに心の中に音楽があります。ただ、それが外の世界に出て行かないだけなのです。

アリスさんなら、絵を描くときの気持ちを思い出してください。外側にできた絵が、たとえどんなに不如意なものであったとしても、アリスさんの心には、もっと美しい絵が描かれていたはずです。そもそも、それがなかったら、絵を描こうという気持すら起こらないのではないでしょうか。

人生において、「金持ちであること」や「幸福であること」を信じるのも、同じです。外側にどんな世界が現れていようとも、心の中に豊かさや幸福を抱いていることはできるはずなのです。それができないのは、私たちが、人生を「自分が描いている絵だ」と思っていないからなのです。

私たちは、自分の人生に対して、私のピアノ演奏を聴く人のような態度を取っています。まず演奏を聴いて、それから音楽を心の中につくろうとするから、何時までたっても、音楽にならないのです。

そうではなく、自分でピアノを演奏する人になってください。まずあなたの心の中に音楽をつくってください。あなたの心の中に音楽がなかったら、あなたがどんなに技術を習得しても、よい演奏はできないのです。

私たちの人生の演奏家は「神」あるいは「宇宙」です。「宇宙」の演奏技術は完璧です。それは私たちの心にある音楽を完璧に演奏してくれます。私たちがしなければならないのは、自分の心の中に完璧な音楽をつくることだけなのです。

13 アリス: 心の中に描くことが難しくてもそれが先だと言うことは分かります。でも、現実とは逆の状態の気持ちになるのは大変難しいことです。それで、例えば、宝くじを買たりすると確かにお金持ちになった気持ちになりやすいと思いますが、いかがでしょうか?新興宗教で、「この壺を買うと***が叶えられる」と言われて買い、実際、叶えられるケースもあるそうですが、同じメカニズムなのでしょうか?

14  宝くじを買ってお金持ちになった気分になれるのなら、それもいいかも知れませんが、それでは決してお金は手に入らないでしょうね。なぜなら、アリスさんがお金持ちの気分になる目的はお金がほしいからだ、ということがアリスさん自身にわかっているからです。

私たちは、決して自分を欺くことはできません。お金がほしいというところから出発したら、どんな方法も必ず失敗します。なぜなら、「お金がほしい」というのは、「いまお金がない」と宣言しているのと同じだからです。実現するのは、将来の希望ではなく、この「いま!」という宣言なのです。

 「お金がほしい」という気持ちを捨てることが必要です。どうやったら、その気持ちを捨てることができるのでしょうか。そのために二つのヒントを差し上げます。

一つは「お金がほしい」というのはまやかしの欲望である、ということを理解することです。お金そのものというのは、実は何の役にも立ちません。お金は食べることも着ることもできないし、お金を運転して走ることもできないし、お金で絵を描くこともできません。それにも関わらず私たちがお金をほしがるのは、お金があれば、それによって、食べ物を買ったり、絵の具を買ったり、できると思うからです。つまり、お金というのは、最終目的ではなく、中間的な経過手段なのです。そうであれば、お金を手に入れたからといって、かならずしも最終的な目的を達成できるとは限りません。

半世紀以上昔、こんな話を読んだことがあります。

ある老夫婦が、旅行をしていた友人からお土産に変なものをもらいます。それは猿の手首の干からびたミイラでした。友人は、それはどこかの部族の呪い師からもらったもので、そのミイラの手を高く上げて願い事を唱えると必ずかなえられると言います。ただし、願いがかなえられるのは三つまでです。友人は、帰り際に、「何を願うか、よく考えるんだぞ」と言って帰っていきました。

老夫婦は、いろいろ相談した挙句、やはり何にでも使える、ということでお金を願うことにしました。老人はその猿の手首を握り締めて高く上げ、「百万ドル手に入るように」と言いました。手首がぴくぴくと動いたような気がしました。二人は緊張して、そのままじっとしていましたが、しばらくしてようやく我に返り、ほっと一息つきました。とたんに、電話がなります。それは、老夫婦の息子が勤めていた会社からで、息子さんが作業中の事故でお亡くなりになりました、という電話でした。そして、会社が申し出た見舞金が百万ドルだったのです。

葬式を済ませたあと、老夫婦は寂しさと後悔の念に責められて、二人でいても、会話も弾みません。ついに、夫人が「息子を返してくれるように、猿の手にお願いしよう」と言い出します。老人は、そんなことをしたら何が起こるかわからない、と言って反対します。けれども、どうにも我慢できなくなった夫人は、老人の反対を押し切って猿の手に願いをかけました。とたんに玄関のベルがなります。夫人は、「ほら、あの子が帰ってきた」と喜んで、玄関に走っていきます。老人は、夫人が残していった猿の手を取り上げて、最後の願いを唱えます。夫人が玄関のドアを開けたとき、外には街路樹が木枯らしに揺れていただけでした。(「猿の手」、リーダーズ・ダイジェスト、昭和25年ごろ)

冗談と取るには、あまりにも世知辛く、そして悲しい物語、60年たってもまだ忘れません。

「お金を求める」というのは、こういうことなのです。お金というのは、最終目的にはなり得ません。お金が手に入ったからといって、幸せになれるとは限りません。二つ目のヒントは「最終的にほしいものを求めなさい」ということなのですが、それについては、この次にしましょう。

15 アリス: <お金というのは、最終目的にはなり得ません。お金が手に入ったからといって、幸せになれるとは限りません。>これはその通りなのですが、特別の守銭奴でない限り、そのことは分かっているのではないでしょうか?ホリエモンのように、お金があれば何でもできると思わないまでも、もしもお金があれば、困ることが少なくなり、あれもしたい、これもしたいといったことが実現させることが出来ます。

猫さんの出されたエピソードの原型はギリシャ神話のミダス王ですね。神様に何でも願い事を聞いてやると言われて、触れるものすべてを金に換える力が欲しいと言った王様です。後で、自分の娘も食べようとするパンも金に変わってしまって窮地に陥ります。

でも、これらのエピソードもどこかおかしい気がします。神様が余りにも言葉の表面通りに願いを聞いているからです。神様ともあろう方が何だか理解力が足りない気がします。

おかしいに違いないですが、どこか訴えるものを持っていて、また、不思議です。

もう一つ、一般的な疑問ですが、あることの実現を願うことを祈りだとすれば、祈ることは不如意の表明でもあり、その状態が実現するだけだと言えば、祈りとは実現不能なことを祈っていることになります。祈りは有害でしょうか?

16  <祈りは有害でしょうか> 有害です。それは、私たちが祈りとは何かということを正しく理解していないからです。私たちが病気になったときに、間違った薬を飲めば、かえって害になるでしょう。同じように、祈りも、正しい方法で祈らなければ、役に立たないどころか、逆の効果を生むことさえあるのです。

 <神様ともあろう方が何だか理解力が足りない気がします> これも神様とは何かということを正しく理解していないために出てくる疑問ですね。釈迦やキリストが教えようとしたのは、まさにこの「神様とはどのようなものであり、私たちが幸せになるために、神様とどのように付き合えばいいか」ということだったのですが、後世の人たちは皆それを誤解し、自分勝手な付き合い方(祈り方)をしたために、世界が悲惨な状況になっているのだ、と私は考えています。

 アリスさんは<神様ともあろう方が何だか理解力が足りない気がします>と言われますが、私はむしろ神様は理解力があるので、このような対応をされるのだと考えます。アリスさんは、子どもが試験問題や宿題を抱えてウンウン唸っているときに、それは可哀想だからといって、代わりに全部解いてあげるでしょうか。それは、子どもの成長の機会を奪うだけでなく、子どもの人格そのものを否定することですね。

 さて、少し先に進みましょう。二つ目のヒントは「最終的にほしいものを求めなさい」ということです。最終的にほしいものというのは、ふつうは、外界の事物を指しています。それはたとえば、健康であったり、新しい家であったり、車であったり、海外旅行であったり、特定の人との人間関係であったりします。

 けれども、よく考えてみると、これらの事物も実は最終的にほしいものではないことがわかります。私たちは、最終的にはただひとつ「幸せでありたい」ということを求めているのです。それ以外のものは、すべて手段または条件に過ぎません。

 私の息子が幼かった頃読んでやった本に、「どうながだっく」という絵本がありました。

胴が長く足の短いダックスフントが、すばしこいアヒルにいじめられて、夕日を見ながら溜め息をつきます。

 「あのアヒルさえいなければ、ぼくはしあわせなんだがなあ」

 私たちも、どうながだっくと同じように、「あの○○さえいなければ」とか「あの○○さえ手に入れば」と言って、外界に幸せの条件が成立することを求めます。それは、私たちが、「幸せになるためには一定の条件が満たされなければならない」という観念に捕らえられているからです。

私たちは、青い鳥を探して旅に出たチルチルとミチルのように、幸せを求めて、外界の事物を手に入れるための旅に出ます。けれども、外の世界には青い鳥はいません。チルチルとミチルは、青い鳥は最初から自分の家にいたのだ、ということに気づくまで、旅を続けなければなりませんでした。幸せを求める私たちの旅も、私たちが「幸せになるためには何の条件もいらないのだ」ということに気づくまで、終わることはないでしょう。

ところで、チルチルとミチルの青い鳥がいた「自分の家」とは、どこのことでしょうか。それは次回にします。「青い鳥」と「狐」が結びつくことをお話しましょう。

17 アリス<アリスさんは、子どもが試験問題や宿題を抱えてウンウン唸っているときに、それは可哀想だからといって、代わりに全部解いてあげるでしょうか。それは、子どもの成長の機会を奪うだけでなく、子どもの人格そのものを否定することですね。>

まさしくその通りです。ですから、猫ささんからお答えが欲しいわけではありません。私の中から、私が答えを引き出せるように、何か良いきっかけを下さるとありがたいのです。

お金持ちになりたければお金持ちになった気になりなさい。その具体的方法のへ話が来ました。祈りは有害だと言うことまでわかりました。ついで、お金持ちになると不幸になる事例がでたあたりでわからなくなってしまいました。

2005・5・7

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