アリス、アリスに会う   1−9

この対話は「自分を探すアリス」の続編ですが、話は絶えず原点へと戻りますので、この編から読まれてもかまいません。

 
1 アリス
 ・・・・猫さんのお考えは次第に明確に理解出来るようになりました。

根本のお考えについては、当分、触れないことにして、前にも一度やりましたが、私たちの人生にたくさん発生する不如意に対し、どう対応したらいいのかということを、具体例でお伺いすることにします。

A 歯が痛い。B 金がない。C 恋人が心変わりした。

これを不如意だとしますと、

A’歯痛が治った。B’金が出来た。C’恋人とよりが戻った。これを如意とします。

これに対する猫さんの解決策をお聞かせいただけませんか?

(なんだか生々しいですが、不如意は、余り高尚なものでもなさそうです。)

2 チェシャ猫 具体的な課題について論じるのは、私も賛成です。A,B,Cを一つずつ取り上げましょう。

けれども、私の考えをお話しする前に、縁起説では、このような課題に対しどう対処するのかを教えていただけないでしょうか。

『自分を探すアリス』の対話の際、アリスさんは、私が唯識で自分は中論派だとおっしゃいました。中論といえば、縁起説ですね。私は、縁起説について、仏教辞典に書いてある程度のことは知識として知っていますが、先日のメールに書いたように、その書いてあることの趣旨がよく呑み込めません。

たとえば、アリスさんが今回あげられたような具体的課題に対して、縁起説はそもそも解決を与えようという意思を持っているのか、ということからして、私にはよくわかりません。

それで、先日のメールには、私の勝手な解釈で縁起説はこう言うだろう、というたとえを書いておいたのですが、それについても何もコメントはいただけないのでしょうか。

縁起説を批判したりするつもりはありません。ただ、縁起説の立場を理解すれば、それとの対比によって、私の考えをもっとわかりやすく説明できるのではないか、と考えています。

3 アリス 不如意、苦に対して<縁起説では、このような課題に対しどう対処するのかを教えていただけないでしょうか。>

縁起説を解説する力は私にはありません。我流解釈を書かせていただきます。

物事にはよって来る何かがある。いま、こうなのは、それなりの、よって来るところのものがある。今のAはBによって、BはCによって・・・という風になるのだから、Aという固有のものが存在するのではない。しかし、今、Aは存在しているのである。

苦は、さかのぼれば無明である。(十二縁起)

無明の最たるものは自分があると思うことである。そんな塊は実はないのである。塊があると思うことが苦の始まりである。そんな自分は存在しないのである。(無我)

上記のことが分かれば問題は霧消する。そこに至る道として、八正道を行ないなさい。

(私の理解はこんなところですが、ナーガルジューナさんがびっくりするかもしれません。)

4  要するに、不如意は感じる奴が悪いんだから、そいつの首をちょん切れ、というわけですね。

Off with her head! と叫ぶどこかの女王様みたいに。

「病気は治ったが、患者は死んだ」という西洋のことわざを思い出しました。「患者を殺せば病気なんか問題じゃない」ということでしょうか。

私も、私たちが自分だと思っているもの、すなわち「我」というものは、幻(イリュージョン)であると考えています。これは「無我」に相当するかも知れません。

けれども、幻というものは、それを見る主体がいなかったら存在しないのです。「幻の中に描かれた自分」=我と、「それを見ている自分」=核とは違う、というのが私の考えです。熊の絵本を読んだ少年が、いくら自分は熊だと思ったとしても、実際には熊にならないように、「核」がいくら自分は「我」だと思い込んでも、核は核のままです。

さらに私は、核が見る(体験する)ものはすべて幻である、幻以外に体験されるべき真実というようなものは何もない、と考えています。したがって、不如意の解決法は、幻をなくすことではなく、「正しい幻」あるいは「よい幻」を見ることなのです。それはつまり観念の結晶を作り変えることです。(「観念の結晶」のたとえは、『自分を探すアリス』の<448 猫>に出ています。)

以上は一般論の復習です。

以下、個別に話を進めましょう。それは、一般論の延長ないし展開ということになりますが、そのつど、新しい内容が開示されると思います。

A 歯が痛い

歯が痛いなら、歯医者に行けばいい――これが一番簡単な解決法ですね。そして、これが一番楽な解決法なのです。楽だから、みんなその道に走って行く。何時までたっても、本当の解決法を手に入れることができません。

歯が痛む、というのは、私たちの心の中にある観念が現実として現れたものです。したがって、心の中の観念を変えることができれば、歯の痛みも消えます。

けれども、歯が痛むというのは、具体的に「歯が痛くなってやろう」と思ったから痛くなったわけではありません。これは、私たちの心が「人間の身体は病気にかかるものである」と考える人類の集合意識に同調している結果として起こることなのです。「集合意識が甘いものを食べたら歯が悪くなる」と考えているので、それに同調している人は甘いものを食べると、歯が痛くなるという現実を体験することになります。したがって、これはほかのあらゆる病気、老衰、事故死などとも連動しています。

歯医者に行く、という解決法が楽なのは、それが人類の集合意識に乗っかっているからです。私たちは、集合意識の大波のような波動の中に生きていると考えてください。その中では、波と一緒にゆれているのが楽なのです。波に逆らって、自分だけの波動で生きようとすると大変なのです。

けれども、その大変さを乗り越えて、この「肉体に関する集合意識」に同調せず、肉体が不老不死であることを完全に信じることのできる人がいたら、その人は病気もせず、死ぬこともなくなります。

その一つの例が、先日お話した、何も食べずに生きている女性です。1996年に "Living On Light" という本を書いたこの人は、そのときすでに2年間、何も食べず、何も飲まず、光だけからエネルギーをもらって生き続けている、と書いています。そして、飲食をやめることができるかどうかは、「信頼」の問題だ、と言っています。「信頼」とは、「人間は食物を食べなければ死ぬ」という観念から、どれだけ自分を切り離すことができたか、という問題です。

これが、Aに対する私の回答です。

「光を食べて生きる女性」の話を、アリスさんは信じないかも知れません。私は全面的に信じています。けれども、私が信じているのは、「心の中から『食べなければ死ぬ』という観念をなくすことができた人は、食べなくても死ななくなる」ということです。私の心から「食べなければ死ぬ」という信念をなくすことはできていませんので、私はまだ毎日食事をしています。

いったん、ここで切って、Aについて十分論議してから、次に移ることにしたいと思います。

5 アリス: 歯が痛ければ首をちょん切るのが手っ取り早いですね。ハートの女王は10回ほど「首を切れ」と命令を出しますが、誰一人死んだ人がいないのは不思議です。傑作は、チェシャ猫が顔だけ空中に現したとき、やはり「首をちょん切れ」の命令が下るのですが、首がなくて執行人が困るところです。これは冗談にして本論に戻ります。

原理原則が分かったとして、

a)猫さんご自身が歯が痛い時どうされますか

b)私が歯が痛いく苦しんでいるとしたらどんなアドバイスをいただけますか?

(実はこのような質問はイエスにパンや奇蹟を求める民衆のようで余り好きではないのですが・・・)

 猫:  <(a)猫さんご自身が歯が痛い時どうされますか?

私は歯医者に行きます。現に1年ほど前、歯を一本抜いてもらいました。入れ歯というものが如何に不具合なものかということも経験しています。

<(b)私が歯が痛く苦しんでいるとしたらどんなアドバイスをいただけますか?

歯医者に行きなさい、と言います。
要するに、歯が痛み出してからあわてても遅いのです。それを何とかしようとしたら、イエスのように力のある超能力者か何かに来てもらわないと役に立たないでしょう。

したがって、今、歯痛に苦しんでいるのなら、ためらわずに歯医者に行ってください。けれども、歯が痛いのが止まったら、そこで忘れてしまうのではなく、それからが本番なのだと考えてください。何の本番かというと、人類の集合意識のくもの巣から逃げ出す努力を始めることです。

これを詳しく言い出すと、また原則論に戻りますのでやめますが、要するにふだんから集合意識を離れ、「正しい」意識状態を保つ努力を重ねることです。そうすれば歯痛が起こらなくなります。防犯はふだんの心がけが大事で、泥縄は役に立たない、ということですね。

7 アリス: ご返事ありがとうございました。今、歯が痛んでいるわけではありません。
歯痛にならないいい方法があればお教えください。

8  <歯痛にならないいい方法があればお教えください>ということでしたが、要するに、近道も抜け道もないということです。ふだんから、少しずつ努力して、集合意識のくもの糸を振りほどいて行くしか道はありません。そのためにどうするかということは、また、これから話を続けていきましょう。

不如意の次のテーマはお金でしたね。これも原則論は同じですが、このテーマを具体的に取り上げると、また意識をコントロ−ルするということの別の側面が見えてくると思います。

9 アリス: 今日はヨハネ福音書を少し読み、不如意に付いての前の「対話」を読み返しました。猫さんが立派な索引をつけておられので、便利です。驚いたことに、私がその頃と同じことを繰り返していることです。全く進歩なしだなと嘆息しています。

もう一つ。孔子の弟子が米や野菜の作り方を聞いたのに対して、年寄の農夫に及ばない、といっておられるのを思い出しました。歯のことは歯医者ですね。

<これを詳しく言い出すと、また原則論に戻りますのでやめますが、要するにふだんから集合意識を離れ、「正しい」意識状態を保つ努力を重ねることです。そうすれば歯痛が起こらなくなります。防犯はふだんの心がけが大事で、泥縄は役に立たない、ということですね。>

この<泥縄は役に立たない、ということですね。>は私にはとても痛い話です。自分でも自覚していますし、人からもそう見えるようです。楽天的というか、ずぼらというか・・・何とか改善して不如意ならなくしたいものです。

  2005・5・1         トップへ   つづく