「沢登りをすると、年を取ったことを痛感する。石の上をポンポンとバランスを取りながら渡っていた芸当が今は出来ない。…」
この前の「遊山」のあとがきに吉岡さんはそう書いている。

「今からか考えてみると、あの時もう、おかしかったんだね」
 吉岡さんが脳腫瘍の手術後、まだ、元気に口を利けていた頃、そう述懐していたが、あの時とは、同じ「遊山」の本文にも出ているが、丹沢での出来事を指している。つまり、昨年の五月、写真を撮るため、独り丹沢の沢を歩いていて、岩を踏み外し、水の中に転倒して、三十分も動けなかった事故を言っているのである。

バランスよく足を運ぶのは吉岡さんの得意とする所で、永年一緒に歩いて、登りではあまり差がつかないに、降る時大きく差が出来るのは、吉岡さんはリズミカルに足場を選びながら歩くことが出来たからである。

二人で兵庫県横断徒歩旅行をした折、最後に大江山へ登って行こうということになって、頂上まで登ったが、意外と時間を取り、宮津への最終バスが峠を越える時間が気になり始めてきた。吉岡さんは先に行ってバスを止めておいてやるからと言ってトントンと降り始めた。一本道で離れるのは何の不安も無ったが、五,六百メートルは差が出来たのではないかと思う。峠に着いたときはもう当たりは暗くなっていたが、バスの方も遅れてきたので、吉岡さんはバスを止めることなく済んだ。

奥さんを交え三人で北岳、間岳、農鳥岳を縦走した時、大門沢の下降の時も大きく差がついてしまった。三千メートル近い尾根から、一挙に下まで降るのであるが、吉岡さんが石をうまく踏みながらどんどん降って行くのに対して、私はといえば一歩一歩よたよたと歩を進めるので、膝をやられ、泣きながら後を追った記憶が三十年も経た今も生々しく残っている。

  吉岡さんと山に登ったのは昭和四十年前後、大峰山系の弥山川を、テントを担いで遡行したのが最初だったと思う。鬱蒼とした原生林の中を美しい沢と滝が続いて、人の子一人会わず、まさに幽谷にふさわしい谷であった。私もこれをきっかけとして、山の魅力に取り付かれ、引き続いて二人だけで、又は数人で大峰、大台の山を歩いた。
 頂上に立って深々とした山波を見ながらよく「こんなに深い山は関東にはないよ」と吉岡さんは呟いた。

幕営が多かったので、荷物はいつも重かった。登りでは一グラムでも荷を軽くしたいと思うのが人情で、苦しくなると自分より相手の荷物が軽いのではと疑い始める。私もそんな時があって、ある休憩の時、吉岡さんの荷物をそっと持ち上げたことある。私のより遥かに重いことを知った時、恥ずかしい思いが全身を走った。以来吉岡さんの荷が私より軽いと思ったことは一度もないし、事実そうであったと思う。十歩歩いては立ち止まり、二十歩歩いては息を整えなければならないような急坂を吉岡さんとどれだけ登っただろう。小休止の時、半分に切り砂糖をぶっ掛けて食べたレモンの数はいくつになるだろうか。こんな中で、年中風邪を引く病弱な私の体質も少しずつ変わっていった。

吉岡さんから、また、山登りから多くのことを学んだ。一番大きいことは何かと言えば、人を信頼できる時の喜びと言うものであろうか。どんな深山でも吉岡さんとなら不安が無かった。吉岡さんが東京で、私がまだ神戸にいる頃、何度か南アルプスへ登った。例えば、何月何日、中央線辰野の駅で朝四時に会おうと一、二月前に一度約束が出来ると、その当日、薄暗いホームに、吉岡さんの笑い顔を見ることが出来た。

「ぼくは本当は遊びたいんだよ」
あれは、吉岡さんが六十を過ぎて、会社を替わる頃だったと思う。何か心から伝わるものがあって、そうだろうなと思った。吉岡さんが遊びたい言った時、その中身には触れなかったが、私には分かっていた。勿論好きなゴルフもその内に入っていただろうが、何よりやりたかったことはカメラを携えて野山に出かけることだったと思う。

  そのカメラで吉岡さんは何を写そうとしたのか?
 写真雑誌を飾る奇抜な景観や意表を突くようなアングルから捉えたものには余り興味が無かったのではないかと思う。「遊山」に発表した作品は、輝くススキ、蔦紅葉、古梅の太い幹から細く伸びた小枝につけた数輪の梅の花、雑草に止まる胡蝶、雑木の黄葉、木の芽、渓流の岩に落ちた紅葉、湖の氷の割れ目…そして前回は苔であった。いずれもどちらかと言えば平凡な、一見人が見落としそうなものを、狭いアングル切り取ったものが多かった。
  今年になって雪の後、見舞いに行った時、もうそろそろ梅が咲いているよ、と言うと、吉岡さんは、梅の花に雪が乗っているだろうな。今年は撮れないな。と呟いていた。
 吉岡さんが撮りたかったのは一口に言えば、「いのちの輝き、いのちの姿」ではなかったかと思う。

三途の川はどんな川か知らないが、今度はうまくポンポンと石を踏んで、向岸へ渡ってくれたと思う。

吉岡さん。天国で、いのちの花を撮りながら、しばらく待っていてください。

     遊山へ                            (遊山21掲載)

吉岡達夫追悼

い の ち

宮垣 余間