定刻の十時に、五十人乗り程の小型船で海に乗り出した。

港を出た途端にかなり揺れ出して、甲板も時折大波をかぶる。風もほとんどない晴天であるにも拘わらず、うねりが高いことが最初の内は不審に思われたが、東京湾と違って、三浦岬に相当するような突起がないから、もろに大西洋の荒波の只中に分け入っていくことになるからであろう。

 約五十分の船旅で、大方の乗客は吐き気をこらえた、青ざめた顔になってしまった。

 アラン島は、正確に言えば、イニシュモア(大きな島)、イニシュマーン(真中の島)、イニシア(東の島)の三つの島の総称である。

ケルト文化の中心とも言われており、バレン地帯と同じく石灰岩が剥き出しになった大地が広がっている独特の風景に加えて、ケルト以前の先住民族の時代から、初期キリスト教文化にかけての古代遺跡が多く残されており、アイルランド随一の観光地である。

  また、この島は、手編みのアラン・スウェーターでも有名である。もともとこのスウェーターは、アラン島の生計を支えていた漁師たちが着用していたもので、脱脂・脱色を施していないから、僅かに黄味のかかった白っぽい自然色をしていて、手にとるとしっとりと重く、いかにもへヴィ・デユーティーである。また、それに描かれた「トレリス」と呼ばれる紋様は、この島の羊を囲い込んでいる石積みの垣を表したものと言われているが、海に出た者が溺死したときに、何処の家の者かが分かるように、それぞれ編み手によって紋様や編み目を違えているという。

我々が目指したのはイニシュモア島で、十四の村に九百人が住む、三島の中では最大の島であるが、バレン地帯を削り取ってそのまま海に浮かべたような、樹木の少ない、なだらかな丘陵を持つ島で、船が入っていった港も、西伊豆の漁港を思わせるようなありふれたたたずまいであった。

埠頭の辺りには凡そ二十台ほどの観光用のマイクロバスがたむろしており、運転手が口々に客を呼び込んでいる。有名観光地にありがちな、生活臭のない、にぎやかな空気に包まれている。
 一台のバスを選んで、島内めぐりのツアーに参加した。十二人の客が詰めこまれて満席である。
 同乗の観光客は、ドイツ人、イタリア人、スペイン人など国籍はさまざまであったが、運転手兼ガイドの話す英語は比較的分かり易く、皆それぞれに分かったような顔をして、頷いたり、笑ったりしているうちに、運命共同体らしい、良い雰囲気になってくる。
  バスが先ず目指したのは、この島の最大の観光目玉となっている、古代要塞のドン・エンガスである。
  埠頭のある村から北西へ八キロ程行ったところでバスを降り、改めて入場料を支払い、要塞につながるゲートを抜けてから、更に二十分程、島の反対側の海岸に向けて瓦礫の道を登り詰めたところにそれがあった。

 地の果ての青野を画す石の嵩

石爛れ野薔薇も毒を持つ如く

重畳の岩の大地や雷の雲

三伏の羊激しき息づかひ

以下は司馬遼太郎の「愛蘭土紀行」からの抜粋である。

「八百メートルも岩盤の原を歩いた末に行きついたのは、人工の石垣だった。こげ茶色の石を石積みして、高さ三メートルの石垣の壁が、延々と横に伸びているのである。
  キリスト教渡来以前のものらしいが、誰が、いつ頃、何のために築いたかということは一切分かっていない。(中略)
  その石塁の低いあたりを乗り越えると、テニスコート二面ほどの広さのまっ平らな岩盤の広場があり、その向こうは大断崖となって大西洋に落ちている。大断崖まで腹ばいになって進んだ。
  私は虚空へ首一つだけ出してみた。下は、吸い込まれそうなほどに高い。(中略)但し、両脚は安堵していた。本来、高所恐怖症の木下秀男氏が、目をつぶっておさえてくれていたのである。」

  この日も、何人かの若者が腹ばいになり、首一つ絶壁の外に突き出していたが、大方の観光客はかなり離れたところから見守っていたり、崖が一部、陸の方に抉れている部分に鉄の柵が設けられている個所があって、そこで柵に掴まって下を覗き込んだり、無難な場所で記念撮影をしている程度である。

筆者も、決して高所恐怖症ではない筈であるが、せいぜい崖っぷちの二メートル程手前ぐらいまで及び腰でにじり寄ったのが精一杯で、とても腹ばいになって下を覗き込む勇気はなかった。 

それにしてもここが往時の砦だったとすると、何ともその形状が不思議である。(注:司馬遼太郎氏はこれが何のために築かれたのか分からないとしているが、多分、司馬氏がここを訪れた後に建てられたと思われるゲート前の建物の中には、かなり克明にこの建造物の生い立ちが記されていて、少なくとも一時期は砦として利用されていたようである。)
  つまり、ここの石塁は上から見ると、U字形をしており、その開口部が海側、つまり絶壁の淵となっていることである。これが牢獄と言うのなら話は分かるが、敵から身を守る砦だとすると、まさに逃げ場のない「背水の陣」に他ならない。          
  また、施設に掲げられた解説によると、この構築物は初期の頃は宗教的な儀式に利用された可能性が高いということであったが、仏教であれば僧侶の瞑想の場としてうってつけかも知れないが、西欧の果てに近いこの地では、修行の場というよりは、祭壇を築き、生贄を海に突き落とす儀式の場ではなかったろうかなどと、どうしても血生臭い想像をしてしまう。
  いずれにせよ数多の人の命を奪ったであろう大絶壁の向こうには、大西洋の海原が広がり、やや丸みを帯びた水平線の彼方には視界を遮るものが何一つ無く、風がうなりを上げるばかりであった。 

夏雲の噴き出で高所恐怖症

最果てへ夏潮速し鳥速し

たんぽぽの家はいずれも石造り

羊共みな臆するな油照り              

啄ばんでみたき野の実の乳首ほど

ゲートまで戻った後、再びマイクロバスに乗って、島内の小さな集落や、古い教会跡や、墓地などをいくつか廻り、埠頭のある村へ戻ったが、この行程でも、島の住人の姿はほとんど見られず、人々の暮らしぶりを垣間見ることが出来なかったのは残念であった。

遅めの昼食を埠頭付近の「アラン・フィッシャーマン」と云う料亭で摂る。広い店内は、満席の盛況で、この国にきて以来見かけなかった日本人のグループ客も部屋の一画を占めていた。
  ツナ・フレークのマヨネーズ和えとボイルドポテト、それにエールを二パイント、ジョッキでオーダーする。
  空気が乾燥していることもあって、エールがすこぶる美味く、すいすいと喉を越してしまう。ツナ、ポテトも共に予想以上の味である。
  数人の若いウエイトレスがびきびと立ち働いていたが、いずれも明るいギャル達で、離島の朴訥な村娘といった感じは全くなく、それはそれで、好感がもてた。

島の娘(こ)はみな青潮の瞳もつ

 

写真は著者撮影
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「アイルランド紀行」全文は遊山30,31号収録
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(以 上)

                        


                                                        平    

アイルランド紀行 (抄)