無垢なるコラボレーション             山本裕一 



collaboration  共同作業、共同制作

新聞の片隅にこんな記事が載っていた。ボリショイ・バレエのプリマドンナがリストラされ、提訴し、無効となったがまた解職されたとのニュース。最初の理由は肥満であり、次はパートナーのなり手がいないという。思わず笑ってしまったが、深刻な事態には違いない。場面は白鳥の湖、王子がいざ白鳥を空中へ舞い上がらせようとしたが重すぎて…、そういうことではないだろうか。

ワイエスの息子ジェイムスの描いた、ルドルフ・ヌレイエフの素描を思い出した。髪はぼさぼさ、苦虫を噛み潰したような表情のヌレイエフの顎は、力強く張っていて首太で、僅かに描き出された胸板は、鋼のように強靭に見える。

ヌレイエフをして「私がバレエを選んだのではない。バレエが私を選んだのだ。」と言わしめた最強の男性ダンサー、パリ国立舞踊団きっての鬼才だった。例えばこの男でも、持ち上げられない可憐なプリマドンナだとすると…。

音楽もコラボレーションを前提とする。その崩れは音楽の出来・不出来に影響し、ライヴでは空前絶後の絶妙さを生むこともある。前橋汀子とエッシェンバッハによる、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」と第5番「スプリング」、その愛聴CDのライナー・ノートに気になる箇所があった。エッシェンバッハのピアノは時々立ち止まって、深淵なる音楽の暗闇を覗き込むようにためらいがちになり、張り詰めた表情をみせると云う。だとすれば、ヴァイオリンはたまらない困難さを抱え込むことになる。ピアノはいわばデジタルだから立ち止まる、すなわち無音の領域があっても少々は気にならない。しかしアナログであるヴァイオリンはそうはいかない。弦を擦り続けなければならない、しかも滑らかに。弓の長さにも限界がある。CDを聴いていて、前橋の困難さなど、私の耳では到底判然としないが、この文章を読んだ後ではもう素直には聴けない。どうしても身を捩りながら、エッシェンバッハの勝手な世界と苦心惨憺対峙する、前橋汀子の姿が見えてくるのだ。


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我が家の居間の壁に、妻の節子が描いた小さなスケッチが掛かっている。人形のようなものが五体描かれていて、その右下隅に、アンティーブ 95.3.31と記されている。95年春、初めての海外、プラハからミラノを経由して南フランスにいた。早春の陽光と澄み切った空気、そして紺碧の地中海にすっかり魅了されていた。アンティーブの海沿いにある中世の館、グリマルディ城すなわちピカソ美術館の石造りの空間の中に贅沢に展示されたピカソの作品を鑑賞していた。訪れているのは我々のツアーだけで静かだった。しかし絵は面白くない、やっと節子が興味を示したのは陶器の展示室だった。大振りの平皿や壷、大きな取手のある人型の陶器等が並んでいて、文句無しの逸品ばかり。図柄はピカソ独特の闘牛や大きな顔や魚たち。そして、彼女が足を止めスケッチを始めたのは小さな陶器の人形たちの前であった。昼食後、ヴァロリスへ向う。ピカソが陶器を作った窯元で、観光工房もある。15センチほどの素焼きの皿に絵付けが始まる。ピカソ風の顔を皿いっぱいに描き始めると、工房の人がしきりに目配せしてくる。かなりきつい表情だ。添乗員に尋ねると、ピカソの真似をするなという。しかも注意書きの貼紙まである。周りをみると、すでに遅く数点の贋作が、密かに進行中であったことは云うまでもない。皿は10年来、ベランダの隅で植木受けとなっている。

妻のスケッチを改めて見ていて、昔、正倉院展でみた、天女をかたどった小さな青銅の塑像群を思い出した。恐らく白鳳あたりのもので一つ欲しいなあと思うほど愛らしかった。その話を節子にすると彼女は、強いて云えば土偶かしらという。ふっと色気を感じて無性に描きたくなったらしい。確かにそう云われれば女人土偶そのもの。頭が小さく首長で胸や腰が強調され、縄文文様らしき装飾まで施されている。顔の描かれた絵皿を含めてピカソの陶器類は先史時代の遺物に似て、素朴で力強くプリミティブな作品だった。先日或る本で、アンティーブからヴァロリス時代のピカソを知ることが出来た。ピカソがブラックから紹介されたヴァロリスで作陶を始めたのは戦後間もない47年。アンティーブのグリマルディ城との因縁は、その前年46年夏、請われてしばらくアトリエとしていた。60半ばのピカソはこの頃二人のうら若き女性を同時に愛していて、美術館のカタログに制作中のピカソと一緒に写っていたモデルは、愛人の一人フランソワーズであり身籠っていた。47年クロード、49年パロマ誕生。フランソワーズは女らしさが欠ける、妊娠中が一番とピカソは云っていたそうである。しかもピカソの旺盛な精気はその間、一年余りで2千点以上もの陶器を産出する。あの人形も作られた。そうなると今度は何やら艶かしく、ふっくらと見えてくるから不思議だ。節子には既にそれが見えていたのだろうか。

ピカソは女無しではいられなかったようだ。その関係が幸せであろうと、葛藤があろうと、豊穣な生への賛歌であり、証である作品を産み続けるためには、黒子としての女たちが常に、ピカソとのコラボレーションの一方を担っていたのではないか。我々はしばし美術館でピカソの陶器に魅せられていた。実はその陰で、見たことすら忘れてしまった作品が存在していた。3.5×6.0メートル、巨大なニコラ・ド・スタールのタブロー「グランド・コンサート」である。

ニコラ・ド・スタールは、19553月、グリマルディ城近くにあったアトリエから身を投じた。享年41歳。私はド・スタールの「屋根」と「海景」という作品からその名を知った。ロシア最後の皇帝に仕えた将軍の息子だった。ド・スタールの絵の特徴は、モチーフの、静物、風景を極端に単純化し、色面で画面を構成する。その色面をナイフや左官屋の鏝で厚塗りにした。その頃の傑作が「屋根」である。ところが亡くなる2年程前から、突然、キャンバスに薄く溶いた絵の具を流すように塗るという、超薄塗り手法に変わってしまう。画商やコレクターの評判は芳しくなかった。雑に見えたのだ。更に亡くなる約半年前ド・スタールは、ベルギーに家族を残し、単身アンティーブのアトリエに籠もり、1日数点というハイピッチな制作を始める。複数の展覧会が控え、隣にあるピカソ美術館での開催も予定されていた。アトリエの外の海はすでに冬景色であった。その暗い海から「海景」が描かれた。前年、ニューヨークで出会ったマチスの作品をヒントに、アトリエ風景が生まれ、やがてド・スタールらしい極端に単純化された室内、静物がぞくぞく作られた。ド・スタールは当時盛んだったメシアン、ケージなどの現代音楽に強く魅かれていて、わざわざ時間を割いて、パリまで小さな車を飛ばしていた。常にモチーフを求め、意欲やモチベーションまでも喚起しなければならなかった。パリでの演奏会から啓示を受けた大作の構想を、友人である画商宛に手紙で報告している。しかしなかなか着手できず筆が進まなかった。そして翌年の553月突然、巨大作品に結実したが未完のまま終わり、絶筆としてピカソ美術館に置かれることになる。


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最近手にしたド・スタール展の図録を見ていて、その解説文中の小さな白黒写真に目が止まった。「グランド・コンサート」との再会である。ド・スタールの略歴もこの解説で初めて知った。早速、美術館のカタログを見ると、作品が展示されているスタジオの写真があった。横長の作品、真っ赤な背景の下部左に、黒くピアノが描かれ、真ん中に譜面台の群れがあり、右端に洋ナシのような黄色のコントラバスが立てられている。横一線にモチーフを配置した静物画と同じく、ド・スタール独特の構図である。瑞々しく爽やかな感じだ。本当に未完だったのだろうか、完成しているではないかと疑ってしまった。モチーフはラフな薄塗りではあるが、背景はしっかり塗り込まれ、そのたっぷりとした赤い色面はスタジオを完全に制し、神々しいほどに見える。

「グランド・コンサート」はピカソの作品世界とはおよそ異なる。例えばピカソの職人技ともいえる線は、陶器に描かれたラフなものでも、ピカソの臭いがついてしまう、しかも常に偉大な重さを伴って。それが嫌で左手で描いたデュフェのような作家もいるが、ド・スタールの絵にはその臭いが殆ど感じられない。まさにピカソの外に存在する。私や節子にとってその違いがかえって印象を希薄にし、忘却させる原因となったのかもしれない。巨大な赤い絵は、城の要として、かつてピカソがアトリエとしていた2階のスタジオの壁で、心臓のようにその鼓動を打ち続けているように思えてきた。静かに、だがしたたかに。

三岸節子の日記が公開された。とことん、挑戦に向けての叱咤や嘆きや宣言である。ベクトルは常にわが身に向けられている。しかしこの矢の先は、別に向けられていたのではないかと思うようになった。死を賭すことも厭わず、一旦火がつくと一気に燃え上がる勝手な美神。しかもアクセスもままならず、あの手この手で火を点け、なおかつ同化しなければならない厄介な分身へ。

ド・スタールにも同じような分身が棲みついていた。火がつくと夜も昼もなかった。美神との入魂のコラボレーションはハイスピードで進行した。しかし心身を激しく削る残酷なコラボレーションでもあった。勝手な妄想だが、そう考えなければ3.5×6.0メートルもある巨大なタブローを、僅か一日か二日で、たとえ未完であったとしても、これ程までの高みの作品に仕上げることなど、到底不可能なことではないかと思えたのである。

舞踏の世界に戻る。NHKの番組「課外授業・先輩ようこそ」で、勅使河原三郎は母校の小学校の後輩たちを、素晴らしい舞踏の世界に誘おうとしていた。

世界的に活躍する勅使河原の舞台には、生きた山羊が勝手に歩き、盲目の青年が登場したりする。それらの自然で自由な動きに彼は、只静かに呼応し付いていく。その緩やかな動き・流れは神秘的で神々しさを孕んでいく。

子供たちは人前で踊る恥ずかしさがあり、ビデオの三郎の世界のたのしさが理解出来ない。10人位の単位でグループをつくり、とにかく手を繋いでぐるぐる歩く。ぎこちない、身体が固くなっている。でもやがて、握る手にあった固さや、冷たさや突っ張りが少しずつ取れ、自然に軽く結ばれていく。そのとき三郎は、あるゲームを提案する。輪になっていたグループを二列に分け、向き合わせに並べる。間隔を1メートル位にして、斜め前の人に息を吹きかける。息を掛けられた人は、その息を受け取って、また斜め前の人に息を投げる、息をまるでボールのように手渡していくという単純なものだ。子供たちは笑いながら動きはじめるが息が合わない。じっと息を止めて待っていると狂ってしまう。なんとかスムーズにしたい。だんだん、夢中になっていく。やがてコツを掴み、ゆっくり、深く呼吸し、軽く身体を反動させ、リズミカルに、体内から外へ、息を渡し、受け取るようになる。ついに、素晴らしい光景が生まれる。

二列の子供たちが、まるで静かな波のようなうねりのある動きをするようになっていく。もう笑い声もない、軽く息を吐く音だけが連続して響き、無心に踊る。波はゆっくり行っては帰る。神秘的な美しさだ。玄人も素人もない、素朴なダンスの誕生の瞬間に立ち会うような、そんな感じがする。自然に涙が出てくる、何故だろう。それは他者に添って一体となる、虫の世界のような原始的でしかも根源的な、微熱を帯びた光景を見ているからではないかと思った。無垢なるコラボレーションの誕生だった。
(完)
050607


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