昭和35年だったか36年だったか、はっきりは思い出せないのだが、いずれにしても私がまだ独身だった24〜5歳の頃、一緒に仕事をしていた1つ歳下の内原君とゴールデンウイークに奈良方面に行ってみようということになり、旅館の予約も無しに出かけた。
天平の甍の美しい唐招提寺を皮切りに、当時まだ三重塔は東塔だけで、西塔は再建されていなかった薬師寺、秋篠寺、法華寺を廻り近鉄奈良駅近くの若草旅館(河上肇が貧乏物語を執筆したという旅館)で宿泊の予約をとって、興福寺、東大寺などを拝観して宿泊。
翌日は朝早く起きて若草山に登り、春日大社付近を散策後、石上神宮、天理教本部、に立ち寄った後、長谷寺へ。丁度牡丹の見ごろも重なって大混雑。室生寺まで足を伸ばす。今から考えると、2日間でよくもこれだけ行ったものだと驚きである。
さて、この2日間の旅で、心に焼きついたものが2つ。阿修羅と伎芸天である。
阿修羅は、興福寺にある大変有名な三つの顔と6本の腕をもつ仏像で、少年の凛々しい姿を表現した将軍万福作の奈良時代の傑作である。その清々しさと気高い姿に心をうたれる。
次は伎芸天、西大寺の北はずれの静かな里に秋篠寺という古びた寺がある。その本堂の暗がりの中に、伎芸天は首をかしげて右手をピアノを弾いた後のように胸の横まで跳ね上げて微笑む。当時本堂の中はとても暗く、懐中電灯の光をあてゝ、表情を仰ぎ見る。
頭部は天平時代の乾漆、体部は鎌倉時代の寄木で造られた極彩色の天女の立像である。
実のところこの2つの仏像に惚れ込んで帰ってきた。
その後、秋篠寺には、結婚後、比呂子と従姉妹で芸術的素養の持ち主である宇野佐誉子さんと一緒に行った。いずれにしても、本堂に入る前には胸が高鳴る気分であったのは間違いない。何故、伎芸天にそれ程の魅力を感じていたのか、自分でも判らず仕舞であった。
現役を終えて、3〜4年前、奈良で毎年開かれる正倉院展を見に行った際、少し時間的に余裕があったので、「昔の恋人」に逢いに行こうと思い、久し振りに秋篠寺を訪ねた。
行ってみて驚いたのは、なんと周辺を含めてビシッと整備されている。秋篠の宮の出現により、補助金が出てそういうことになったようだ。本堂の中も様変りで、伎芸天もライトアップされていて、大変見易くなっていて感激一入であった。
その後、2年前に軽井沢の近くの信濃追分にある堀辰雄の記念館に行ったところ、記念館のど真ん中に、伎芸天の写真が飾ってあるではないか。そのいわれを調べてみると、堀辰雄の小品エッセイの中に「大和路」というのがあって、曰く「いま、秋篠寺といふ寺の、秋草のなかに寝そべって、これを書いている。いましがた、ここのすこし荒れた御堂にある伎芸天女の像をしみじみと見てきたばかりのところだ。このミュウズの像はなんだか僕たちのもののやうな気がせられて、わけてもお慕はしい。――― 」 これで判った。僕たちのもののような天女、これが魅力を感じさせられる理由であったのだ。
(2001・8・8)
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阿修羅と伎芸天
谷 保光