リスボンのスリ               宮垣余間

あのことを書いて置かないと、あの旅は終わらないな、と時々思う。それは、数年前、ヨーロッパを一人旅したとき、ポルトガルのリスボンでスリに遭ったことである。

     *   *   *

6月7日、シェイクスピアを一緒に読んでいる仲間とイギリスで一週間ばかり過ごした後、一人リスボンに飛んだ。ここから先は4週間の一人旅である。

空港からリムジンで、都心へ出て、荷物をごろごろ引いて、ホテルに着いたのは3時ごろだった。その日は、リベルダーデ通り歩いて下り、ケーブルカーに乗って、サン・ペドロ・デ・アルカンタラ展望台へ行った。殆ど人はいない、何の変哲もない公園で、西日に映える街並みを眺めていると、一人の日本女性と出会った。話してみると、イギリスのリースに留学中の学生で、夏休みにモロッコに旅行して、そこで、ひどい目に会ったが、今日、ロカ岬に行って来てやっと癒された気分になったと話した。災難に遭ったことも癒されたことも、心底そう感じさせる響きがあって、そうでしたかとただ頷くだけだった。留学中の娘がモロッコへ一人旅して、ひどい目に遭っていることなど知らないだろうその娘の日本の両親のことを思い浮かべた。しばらく、暮れ行く町を眺めて別れた。

翌日は、ロカ岬へと向かった。列車でシントラで出て、そこからバスでロカ岬へ向かい、帰りはバスで、ラスカイスまで出て、別の線の列車でリスボンに帰るコースである。雲ひとつない快晴で、気持ちの良いスタートを切った。シントラは観光地で人の賑わいがあり、多くのバスが発着していたが、私の乗ったバスには観光客は乗っていなかった。バスは、起伏の多い細い田舎道を停留所毎に止まりながら、農家の人や子供を乗せたり、下ろしたり、まさしく「田舎のバス」で趣があった。40分程バスに揺られて、ロカ岬に付くころには殆ど人はおらず、そこで降りたのは私だけだった。

ロカ岬


ロカ岬は、ヨーロッパ大陸最西端の場所ということで有名であるが、灯台とそれにくっついて、ちょっとした食堂と土産物屋がある以外は、何もない。一面は、岩がごろごろしていて、高山のように、短い草や花が強風にそよいでいた。切り立った断崖の向こうはもうアメリカまでただ海が広がるばかりである。「ここに地果て、海始まる」と書かれた塔が立っている。眼下の白い波、飛び交う鴎、その向こう広がる茫洋とした海の色も大変美しいと思った。昨日の娘が「癒された」と言ったのが分かった。どきどき、観光バスがやってきて、数十人の人を吐き出し、一時賑わうが、写真を撮るとまもなく去ってしまい、また、元の荒涼した姿に戻る。静かな時が流れ、何時までいても飽きない感じだった。土産物屋の片隅で、欧州最西端に来たことの証明書を発行してくれる。値段によって証明書の立派さが違う。中位のを選んでお金を払うと、太字のペンで丁寧に私の名を入れサインしてくれた。

帰りはバスでラスカイスに出て、列車でリスボンへ戻った。沿線は、最近は何処でも見られる、スプレー塗料の落書きがあちこちに見られた。

夕方はマドリッド行きの寝台車の予約のために駅へ向かった。
事件はここで起きたのである。

リベルダーデ通りのバス停は帰宅のサラリーマンが長い列を作っていた。セント・アポローニア駅には46番のバスがよいとホテルで教えてもらって、並んでいたのだ、がなかなか来ない。書いてもらったメモを何度も見ていたのであろう。後ろの男が何処に行くのだと聞くので、セント・アポローニア駅に行くのだと言うと、折りから着いた90番のバスを指して、あのバスも行くと教えてくれたので、列を離れて、飛び乗った。車中は寿司詰めで、バスが揺れると互いの体を押し合う形になる。次のバスストップに着いて多くの人が下車し始めた。その時、隣に立っていた男が新聞を落としたので、拾ってやろうと屈んだところで、自分のベストのシッパーが開けられているのに気付いた。入れていた財布はない。「スリだ!」一瞬頭の中がまっ白になった。新聞を落として降りた男が怪しい。とっさに追って飛び降りた。
スリとおぼしき者は二人組であった。五十歳くらいの小柄な男と私くらいの背丈の40歳くらいの男である。ジャンパー姿で職人風、先ず小柄な方に詰め寄った。「財布を返せ!!」男は両手を広げ、持っていない仕草をしたので、財布はのっぽ方に渡っていると思った。「財布返せ!」 対峙した男は、まん丸な顔で、灰色、爬虫類のような冷ややかな目つきで見返して、その先を歩いている老人を指差した。そのことによって、逆に、そののっぽの男が怪しいと思った。もうそう信じて攻める以外に私のやることはないのである。

「スリ(ピックポケット)だ!」大声で叫んだ。たとえ間違っていても止むを得ない。

「スリだ!」 一方、声を落として、その男に「財布を返せ!」
二人は足早に去ろうとする。通行人もそこそこいる。走れば、目立つので、男はあくまでも早足である。あらん限りの声で「スリだ!」と叫ぶ。こんなに大きな声が出るのが自分でも不思議だった。昔、馬術部で馬を叱った時の声なのである。「スリだ!」を繰り返しながら、「金はやる。財布を返せ!」と交渉口調で食いつく。財布がなければこれから4週間の旅行は出来ない。歩道を100メートル近く追ったであろうか。二人は地下鉄へと降りて行った。切符売り場の前で、帽子を脱いで別人を装うとした。「スリだ!」叫びながら迫ると男はくるりと向きを変え、エスカレータの手前で、財布をぽとりと落とした。素早く中身を見る。大半抜かれているようだ。

リベルダーデ通り
真ん中に中央に大きな木の生えた分離帯があり、
車道と歩道が両側に走る。
上の写真は歩道で、このあたりでスリを追っかけた。

しかし、大方はトラベラーズ・チェックなのである。更に財布の中のカードが健在だ。体中に安堵感がみなぎる。
男はエスカレータに乗って数メートル上がっている。私は大声で「トラベラーズ・チェック!トラベラーズ・チェック!」(ざまーみろ!)と叫んだ。
男はぎょろりとした顔で見下ろした。

財布には、イギリスで使い残した50ポンドが残されていた。これはスリの仁義なのかもしれない。トラベラーズ・チェックは半分に分けて持っていたので、当分は困らないのである。

これで「戦える」と思った。

元の歩道に出て、ポンドを両替し、再び降りたバス停の戻り、何もなかったかのように駅へ向かった。

セント・アポローニヤ駅には30くらいの男が、英語で何か手伝ってやろうと煩く纏わり付いたが、振り切って、予約のカウンターへ行くと、今、コンピュータは故障していると言う。インド女性と一緒に前のペンチで、何時直るかわからないが、待つことになった。ビールを買って飲むうちにやっと人心地がして、これまでのことをメモしようという気になった。取られたのは、日本円2,3万円、ポルトガルの金5000エスクード(日本円で3千円強) トラベラーズ・チェック13万円位。実損4万前後といったところだが、この大活劇体験の代償としては安いと感じた。一時間程待ったであろうか、マドリッド行きの寝台車の予約が出来きた。

バスで街の中心部へ行こうと、通りかかった娘さんに聞くと、107番か35番のバスが良いと言うので、107番に乗って、街の佇まい眺めていたが、いくら立ってもそれらしい所に着かない。ふと対向のバスを見ると107番ではないか。その時、同じ番号で逆行きもあることを知った。私は目的地とは反対の方に行くバスに乗ったらしい。運転手に地下鉄の駅に近い所で降ろしてもらって、地下鉄で、4つ目のロッシオへ向かった。

レストラン街とおぼしき所に出て、夕食を取った。店先に魚介類を陳列している店で、道路にテーブルを出している所に腰を下ろし、鰯の塩焼きを頼んだ。炭火で塩焼きされた、10センチ程の鰯が、大きな皿に、20匹以上出てきた。たっぷりとレモンをかけて、ビールを飲みながら、フライド・ポテトと交互につまんだ。町の汚れ具合から判断して、ポルトガルの生活レベルは、日本の30年くらいかと思った。

9時頃、ホテルに帰り、アメリカン・エクスプレスへ紛失と再発行の事で電話をした。こんな時は英語は面倒なので、日本語の出来るスタッフをお願いしたら、女性が出て、明日私がすべきことをてきぱきと答えてくれて、気持ちが良かった。ふと、日本は真夜中の筈だと思い、一体、この電話を何処で対応しているかと聞くと、ニューヨークだと言う。ニューヨークは昼である。情報のやり取りだけなら、何処に居てもいいのだと得心した。そのニューヨークのヨーコさんにお礼を言って電話を切った。
中味の濃い長い一日だった。

6月9日、朝から警察に被害届けに行った。警察に行くと、そのようなことを扱う所は別の所だと言われて、行った所は、リベルダーデ通りの、昨日、スリに遭った所に近いビルだった。旧くて立派な建物の中の航空会社のオフィスに似た所で、パーサーのような白い服を着て、鼻の下に髭を生やした小柄な男が対応してくれた。胸にはその男の話すことの出来る言葉の国旗のマークのワッペンを五つぐらい付けていた。ようこそお越しくださいました、といったお客様扱いで、署長さんのように落ち着いて、手際よく被害証明を作ってくれた。事務所の直ぐ傍に、観光案内所があったので、昼からの市内観光バスのチケットを買い、今度はアメリカン・エキスプレスへと向かった。こちらの方は少し街の中心を外れた所にあり、昨夜教えてもらった住所を地図を頼りに尋ねて行った。こんなことが無いと歩くこともない道をまるで住民のような顔をして歩いていた。事務所は余り大きくなく、10人前後の人が伝票の山の中で働いていた。書式に書いた数字の書き方が悪いと言って書き換えさせられた。つまり、私の書いた「7」は当地では「1」だと言うのである。そんなことがあったくらいでトラベラーズ・チェックを手に入れ、ホテルに引き返した。この日の夜行でマドリッドに向かうことにしていたので、ホテルはチェックアウトし、荷物は夕方取りに来ると言って残したまま、空身で観光バスのターミナルの方へ向かった。

観光バスは何があったのか知らないが、なかなか出ず、結局40分ばかり遅れてスタートした。
客は15人位だろうか。韓国人の青年が話しかけてきた。ニューヨークの国連銀行に勤めているが、休暇で、友達と遊びに来ていると言った。連れの韓国女性も感じ良く、彼はすらりとした長身で、エリートの伸びやかさを身に付けていて、アメリカ人のように絶えずジョークを飛ばしていた。

バスは、教会や馬車の博物館や対岸を睨む砲台へも行った。韓国青年は大砲を指して、「ねえ!これ三菱製かも知れないよ」と軽口を叩いて笑った。中心街は狭い道に電車が走っており、立派ではあるが、古くて、タイルなど剥げ落ちた所が多く、往年の名女優の所々化粧の剥げた顔に似ていると思った。

セント・アポローニヤ駅近くで、ガイドは、これから旧い街を案内する。治安も良くなく、迷いやすいので、群れを離れないようにと注意して、客を降ろした。壁と壁が迫っていて、肩幅しかないような迷路を歩いた。しかし、そこには普通の人の生活があり、遊び回っている子供たちや戸外で将棋のようなゲームをしている大人もいた。一人では決して入ることないこのような一角の見学が最も値打ちがあったように思う。夕方、ホテルに帰り、タクシーを呼んで貰って、駅に向かった。

マドリッド行きの寝台車は2人部屋で、最初に車掌に乗車券とパスポートを預けるのには驚いた。夜中、国境を越えるためなのであろう。逆に全員が車掌の支配下に置かれるので安心できた。

同室の男は「私はペルー人」とひとこと言ったきりで、すぐ上のベッドに上がってしまった。汽車は静にマドリッドの方に向けて動き出していた。

リスボンでは、とんでもない事に出遭ったが、スリのお陰で得難い体験をさせて貰ったし、何よりもありがたかったのは、スリ体験者という妙な自信が付いたことである。それから先の旅を心に余裕を持って続けられたのは、このスリのお陰だと思っている。終

(問題の財布は、友人のSさんからオーストラリヤ旅行のお土産として戴いたもので、着色されていないバックスキンのものであった。それが使っているうちのあめ色を帯び、さらに今では黒光りして、我がポケットの収まって、いまも毎日の用を達している。)

セント・アポローニヤ駅
意外なほど人が少ない。



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