ロシアとバルト三国駆け歩記






リトアニアのトラカイ城

2008年5月29日(木)〜6月8日(日)の11日間 佐久間 賢氏と今年はロシアの2都市とバルト三国の4都市を駆け歩いてきた。同氏との海外探訪は、2004年夏のスイス、2006年4月のスペイン、昨年5月のトルコに次いで4回目である。



1; サンクト.ペテルブルク(5/29〜5/31)
(1) 5/29(木)11;05JAL-441便で10,5h後モスクワ ドモデジェボ空港着後4hの待ち時間が鬱陶しい。空港レストランで軽食(ペリメニ-ロシア式餃子と飲み物)が460ル−ブル日本円換算で2200円、やたらと高いのとサ−ビスの悪さに印象を悪くする。

(2) モスクワからサンクト.ペテルブルクの間はアエロフロ−ト.ロシア航空の小さな飛行機で1,5h現地時間21;35小さな田舎空港にやっと到着。

(3) 5/30(金)ネヴァ川アレクサンドル.ネフスキ−橋近くのモスクワホテルにて7時起床。午前中ペテルブルクから南に25kmのツア−ル.スコエ.セロ−(皇帝の村)エカテリ−ナ宮殿を見学。夏の宮殿に相応しい白とライトブル−の3階建は新緑の只中にあり非常に美しい。1791年6月大黒屋光太夫がエカテリ−ナ2世に拝謁したという“大広間”も豪華だが、バルト海に産する琥珀で埋め尽くした“琥珀の間”は正に豪華絢爛。全く落着かない。

(4) 午後ボルシチの昼食後、今回旅の目玉“エルミタ−ジュ美術館”を3hかけて現地ガイド エレ−ナさんの説明つきで見学。ダ.ヴィンチの間、ラファエッロの間、テイツイア−ノの間、カラバッジョと14世紀〜16世紀のイタリアルネッサンス期の名画が並ぶ。続いてル−ベンスの間、スペイン美術のヴェラスケス、エル.グレコ、ゴヤと続き最後はレンブラントを初めとするオランダ美術が古典絵画美術を締めくくる。ここまでで疲れきってしまいやれやれと思っていると、“この上の3階には19〜20世紀印象派以降の作品があるので、あとは各自好きなように時間まで観て来てください。”とのガイドの声を受けてセザンヌ、モネ、ゴッホ、ゴ−ギャン、マチス、ピカソ等の作品群を駆け足で回った。ル−ブル、メトロポリタン、プラドなどの美術館にも行ったが、これだけの時間をかけて観たのは初めてであり、”素晴らしい!来た甲斐があった!”と思った。

(5) 5/31(土)午前 エルミタ−ジュ美術館のある冬宮、旧海軍省と旧元老院の間にあるデカプリスト広場を歩く。ここはナポレオン戦争に勝利しフランスに進駐したロシア青年貴族が、フランス自由主義の影響を受けて1825年12月(ジカ−ブリ)アレクサンドル1世が亡くなり帝位継承問題が混乱したのに乗じて、専制政治と農奴制に反対し蜂起した場所である。反乱はニコライ1世宣誓式当日起こったが、反乱軍の計画の甘さでその日のうちに壊滅させられた。以来ニコライ1世の政治は、革命運動を未然に防ぐための秘密政治警察による専制強権政治となった因縁の場所である。またこの広場には1700年から21年までの北方戦争に勝利したピョ−トル大帝の“青銅の騎士像”が建っている。ドイツ出身のエカテリ−ナ2世がピヨ−トル大帝の正当な後継者であることを誇示するために造らせたものという。

(6) 午後はネヴァ川を水中翼船で渡りピヨ−トル大帝が造らせた噴水が美しい夏の宮殿ペテルゴ−フを観て歩く。ペテルブルクの最後はニコライ宮殿でのロシア民族舞踊ショ−とロシアンデイナ−で終了。ここで我々の大学時代新宿の歌声喫茶“ともしび”などで盛んに歌ったロシア民謡を踊りつきで楽しんだ次第。



2; バルト三国(6/1〜5)
(1) 6/1(日) ペテルブルク6時起床、ホテル モスクワを8:15バスでエストニアに向けて出発。約360km 6Hの旅である。ペテルブルクの街を抜けると間もなく両側を新緑の高い樹林に覆われた一本道になるが、郊外の道路修復が雪害に追いつかない由で酷いデコボコ道である。デコボコを避けて左右に蛇行しながらののろのろ運転は、戦後日本の田舎道を走るおんぼろバスを思い出させる。ロシア経済は、98年の経済危機後エネルギ−価格の上昇もあり2007年まで9年連続の高度成長、好景気の筈であるが、ペテルブルクの街の西欧的華やかさから1歩外れると車もスム−スに走れないインフラ事情を見ると、“ロシアは表向きは立派だが中味がない!”と嘆いたペテルブルクのガイドエレ−ナ嬢の言葉が“なるほど!”と実感させられる。因みにエレ−ナ嬢は、父上ガペテルブルク大学の老教授で、自身も同大学を卒業、日本は千葉大学の歴史学科に留学、きれいな日本語を話すインテリである。

(2) 昼近くロシアとエストニアの国境を流れるナルヴァ川を越えてエストニアの街ナルヴァに入る。ここからの道は一転してきちんと舗装され文明社会に戻る。ナルヴァはロシアとの国境を守る砦として13世紀デンマ−ク支配の時代に造られた街でそのお城の中にあるレストランでサ−モン焼きの昼食。ここは、オイルシェ−ル(油母貝岩)を産するエストニアきっての工業地帯だそうで、そのための労働者として移住してきたロシア語系住民が人口の95%に達するという不思議なエストニアの街である。

(3) ナルヴァからタリンまでの途中“エストニア野外博物館”に立ち寄り、夕方18時すぎタリン到着。

(4) エストニアの首都タリン(tallinn 6/1〜2) 
    

首都タリン




タリン旧市街城門の砲塔前で
元気な美人ガイド ブリッタ嬢と
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ホテルはメリトングランドホテルタリン。エレベ−タ−から自室まで5分以上かかるバカでかいペテルブルクのモスクワホテルと違い、こちらは小規模の落ち着きあるホテルで、従業員もつっけんどんなロシア式ではなくにこやか。ここはロシアに支配されていた時代はあってもEU加盟の西欧なのだと感じる。6/2朝 明るく元気な美人ガイドブリッタ嬢がやって来て、こじんまりした中世と現代をミックスした落ち着きのあるタリンの街を案内してくれる。            
  *まずは郊外の”歌の原“。バルト海の見える丘に大きな野外ステ−ジがあるだけの原っぱであるが、1988年エストニア人の3分の1にあたる30万人以上がここに集まり、”民族の歌”を歌い“歌いながらの革命”といわれたバルト三国の独立運動を始めた場所である。                            
*旧市街に戻りト−ムペア(山の手の意味で権力者層の居住した地域)へ。旧市街の西端にあるのがト−ムペア城でそのまた西南にあるのが“ノッポのヘルマン”である。50mの搭上にエストニアの3色旗が翻っている。塔の横には近代的な明るい建物があり、ここには国の議会が入っている由。ト−ムペア城の目の前にあるのが、1901年当時の支配者帝政ロシアによって建てられたロシア正教の“アレクサンドルネフスキ−聖堂“。エストニアの宗教はルタ−派プロテスタントが主流でエストニア人にとっては“目の上のたんこぶ”的存在の由。                           
  *続いて13世紀〜16世紀ハンザ同盟都市として栄えた商人の街下町に移り、 “ブラックヘッドのギルド”“ふとっちょマルガリ−タ”という愛称のついた中世の街を守る城門の砲塔などを見学。昼食後タリンを出発,5H後19時リガ着。 
 
(5)ラトヴィアの首都リガ(Riga 6/2〜4)
 
 *6/3 9時マリテイム パ−クホテル リガをバスで出発。午前中リガ市内を現地ガイドの案内で観て回る。まず新市街のユ−ゲントシュテイ−ル様式建築群、-1935年にラトビアの独立を記念して建てられた自由記念碑(塔上に自由の女神像)-国立オペラ座。続いて旧市街に入って市庁舎前のブラックヘッドのギルド(タリンのものよりこちらの方が華麗で立派)-リガ大聖堂-川岸にあるリガ城跡-聖ヤコブ教会等々
 *午後は自由行動。佐久間氏と2人 市庁舎横にある“The Museum of the Occupation of Lat via(ラトヴィア占領博物館)“を見学。ここは1940年代ラトヴィアが当時のソ連とナチスドイツに蹂躙された折の悲劇、惨状を後世に伝えるための記念館である。1939年悪名高き“モロトフ-リッペントロップ秘密協定”により、ソ連軍がラトヴイアに侵攻、翌年ラトヴィアを併合、41年数万人のラトヴィア人が逮捕されシベリアに大量流刑、その直後には、ドイツ軍がバルト三国に侵攻、41年から44年ドイツ占領下9万人以上のユダヤ人が強制収容所に送られた。更にはドイツが敗勢になる44年再びソ連軍がラトヴィアを占領、49年には“人民の敵“とされた数万人がシベリアに強制流刑された。バルト三国を挟む北のソ連と南のドイツという強大国に文字どおり弄ばれたバルト三国の悲劇に暗澹たる思いをさせられる場所である。
 
(6)リトアニアの首都ヴィリニュス(Villinius)と旧首都カウナス(kaunas)(6/4〜5)

*6/4朝リガをバスで出発。ヴィリニュスに向って約240km(約4,5H)。

*途中“バルトのヴェルサイユ”と称されるルンダ−レ城を見学。

*ヴィリニュスの手前で“リトアニア民族の祈りと悲しみの象徴”とされる“十字架の丘“に立ち寄る。ロシア帝政時代の1831年ニコライ1世の圧政に対して蜂起し逮捕され処刑、流刑された人々のために十字架が立てられたのが始りという大小様々な十字架の山は時々の悲しみと祈りを捧げる場となり、旧ソ連の時代にはブルト−ザ−で何回も片付けられたがなお増え続け今も年々増え続けているという。周りには人家のない野原の真っ只中にある不気味な場所である。ここでも又旧ロシア、ソ連、ドイツの圧政に苦しんだリトアニア人の“怨念の墓場”を見た思いである。“天気晴朗なれど気分重し“。
*6/4 16;30ヴィリニュス着。 旧市街の中心に建つギリシャ建築風の大聖堂、16世紀設立のヴィリニュス大学(売りは数学と物理学の由)、ゲデイミナス城を遠望しながらピリエス通りの石畳を歩くと中世にタイム.スリップした感がある。
  
*6/5(木)7;30ホテル発でリトアニアの中心部にあるカウナスに向う。カウナスは両大戦間の22年間ポ−ランドに占領されたヴィリニュスに代わってリトアニアの首都になった処で、“日本のシンドラ−”として有名な杉原千畝氏が日本領事館の領事代理として勤務した街である。ヴィリニュスの西方100kmカウナスの住宅街に残る日本領事館跡がそのまま杉原記念館として公開されている。小さな住居1階に領事代理として、1940年7月ナチスの迫害を逃れるため、シベリア経由米大陸に渡るために日本通過ビザを求めるユダヤ人3000人のビザを書き続けたというデスクが置かれている。松岡洋右外務大臣の許可が出ないまま、ユダヤ人の家族を含め6千人の命を救った勇気ある外交官が日本にもいたという話は感動的である。ラトビア、リトアニアに来てバルト三国民族の受けた迫害、悲劇、それに対する民族の怨念の深さに気分が落ち込んでいる中で一陣の清風が通った感があった。
*6/5午後カウナスからヴィリニュスに帰る途中、ヴィリニュスに移る以前の中世 リトアニアの首都だったトラカイ城を見学。森と湖に囲まれ、赤レンガの古城が水面に映える絵になる風景である。
*6/5 17;07ヴィリニュス発の夜行寝台列車にス−ツケ−スを持って乗り込む。ベラル−シの首都ミンスク経由モスクワ行きのためベラル−シ入国時にビザ提示を求められる。1等寝台で昨年トルコで乗ったアンカラ特急より車両はきれいだが、2ベッド1室のためベッド巾が極端に狭い。個室特別料金を払っている我々は一人で2ベッド故ス−ツケ−ス置き場もあるが、2人で使う他の人達は大変だ。6/6(金)9;05意外にも定刻にモスクワのベラル−シ駅に無事到着。



3; モスクワ(6/6〜7)
(1) 6/6朝9時過ぎベラル−シ駅(ロシアの駅名は出発地の地名ではなくそこから行ける到着地名を冠している)を出て出勤時ラッシュで混雑するレニングラ−ド大通を抜けてクレムリン赤の広場の南に建つワシ−リ−聖堂裏のレストランで朝食後、早速年配のご婦人ガイドリュドミラさんに連れられて赤の広場に向う。赤の広場の”赤“はロシア語で美しいという意味からついた名称という。    赤、緑、黄でけばけばしい装飾のワシ−リ−聖堂(内部はガランドウの由)は1652年3世紀近く“タタ−ルのくびき”で服従を強いられたモンゴル.ハン国の首都カザンに勝利した記念として、イワン雷帝によって建てられた。イワン雷帝はその国内政治を一種の親衛隊組織により反対勢力を大量テロで押さえ込む恐怖政治で通し、いわばスタ−リン粛清政治のお手本になった人物である。                              
赤の広場レ−ニン廟の裏側城壁際にはレ−ニンに続き大きな国家貢献をした人々のお墓があり、その中には明治の日本社会主義者片山潜も入っているという。後は、グム百貨店を抜けてクレムリン城内。ウスペンスキ−大聖堂内は壁一面にフレスコ画が描かれている。ロシア正教の特徴は1、オルガンなどの楽器がない。2、彫刻がない3、椅子がなく2〜3H立ちっ放しでお祈りすることだそうだ。
クレムリン宮殿、武器庫(宝物殿)、大統領府と華やかな建物が並ぶ裏側に質素なアパ−ト風の建物があり、そこにスタ−リンを始めとした共産党幹部が住んでいたというのに驚く。城内はリラの花を始めとした春の花が新緑に映え誠に美しい。
(2) 6/6夜ホテルノボテルモスクワセンタ−で夕食後、近くのメンデレ−フスカヤ駅からモスクワの環状メトロに2駅乗車。改札口近辺はどこの地下鉄とも特別変わりはないが、ホ−ムの上のド−ムがすごい。1930年代に造られた天井は必要以上に高くド−ムは宮殿のように装飾され、豪華なシャンデリアがずらりと並んでいる。このデコレ−ションが駅毎に違うので“地下美術館めぐり”が出来るという。スタ−リンの時代モスクワ市内のあちこちで見られたスタ−リング様式の建築物同様、共産主義国家の偉大さを世界に誇示するために造られた建造物と思われる。
(3) 6/7(土)モスクワから北北東70kmのセルギエフ.パサ−ドに出掛ける。かつてのロシア正教の総本山という城壁に囲まれた宗教都市。

4;今の経済社会を垣間見ると

(1)1990年10月重工人事部時代に“海外駐在員フォロ−”と称して訪れた時のモスクワに比べると街の表情は明るく活気にみちている。赤の広場横のグム百貨店は当時食料品、衣料品など日用品だけが売られていたが、今は有名外資系ブランドのブテイック、高価な土産物店が並びソ連時代の面影はなく欧米、日本と変りない。
(2)在ロシア日本大使館(2008年4月発表)によるとロシアの2007年GDPは約33兆ル−ブル約150兆円これをロシアの人口1億4200万人で割ると、1人あたりのGDPは106万円位になる。同発表によると“ロシア経済は98年の金融危機後
99年〜07年まで5,1%〜8,1%の高度成長を達成し国民所得はこの8年間で実質2倍以上に上昇しつつあり、中産階級が形成されつつある。“というが、物価上昇率も強烈で99年〜07年の数字は11,9%〜36,5%と経済成長率を大幅にうわまっている。ガイドのリュドミラさんによると、“ロシア人の平均月収は7〜8万円モスクワで10万円位確かに給料は上がっているが、インフレ率が凄くて生活は楽にならない。特に年金生活者は大変で、ソ連時代は現役の平均月収130ル−ブルの頃年金も120ル―ブル位貰えていたのに今は2万円位でとても生活できない“という。だから年金生活者はソ連時代の方が遥かに良かったとなるわけである。ロシア経済は好調とはいえ、それは石油とガスの価格高騰によりかかったものであり、物価上昇率の高さから見ると上下格差は拡大一方で“健全な中産階級が形成されつつある。”とはとても思えない。
(3) ガイドの話では、結婚平均年齢は女20歳、男22歳と極めて早いが、離婚率は60%と異常に高く出生率は1,20と日本より低い。又ウオッカの飲みすぎが原因なのか心臓血管系の病気による死亡率が急上昇している由で、平均寿命は男60歳女70歳程度という。4月のウオ−ルストリ−トジャ−ナル紙によると就労年齢層男子の死亡率は1965年の2倍で、ロシアの人口は着実に消滅に向っているそうである。
 一見華やかな街の様子と経済成長率の高さの裏側には、格差社会の進行と弱者の住み難い社会に後退している側面が見える。
(4) バルト三国でも経済事情はそう大きく違ってはいないようで、三国の中で最も経済が上手くいっているというエストニアの1人当りGDPがロシアより一寸高い130万円位、平均賃金は7万円位タリンなど都市部で14万円位、経済成長率10%強ただ物価上昇率は6%前後とロシアよりはかなり安定している。

最後に今回旅行の印象をまとめて言えば

 6月というベスト.シ−ズンで天候にも恵まれ、森と湖の多い国々だけに新緑と花々が誠に美しく、食事も総じて日本人好みの味で美味しく、いい時に行ったという好印象がある。しかし一方ロシアの建物は明るいクリ−ム色、ライト.ブル−あるいはライト.グリ−ンで表面がきれいに飾られすぎで、“実は内部の修復はまだ出来ていない処が多いんです”由。またロシア.バルト三国ともに公共トイレの整備が遅れており数が少ない上に汚いのには閉口した。サンクト.ペテルブルクでのガイド嬢が言った“ロシアは表向きは立派だが、中味がない。”という言葉が重く印象に残る。
更には、赤の広場で繰り広げられたイヴァン雷帝〜スタ−リンによる内部闘争とテロそしてバルト三国の受けた被侵略国としての惨劇、悲劇を思う時、あらためて“日本はいい国だな!”と感じた次第である。           



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