ヨーロッパ鉄道の旅 − 一人旅のリズム     宮垣 余間

  T.Tさんへ

ヨーロッパを鉄道で旅したいので、私の経験をお聞きしたいとおっしゃるので、どんなことをお話したら良いかと考えている内に、3年前の雑文が見つかりました。とりあえずこれを読んでみてください。一人旅でこれだけ楽しいのですから、二人旅は倍以上楽しいと思いますよ。土産話を楽しみにしています。         

         

  ヒュースロー空港で、イギリスで一緒だった仲間と別れ、リスボンに向かった。ここからは、4週間、一人旅である。

  リスボンのホテル以外は一切何の予約もしていないのだから、その後、どのように進路を取ってもいい訳で、自由という大海が目の前に広がる。まるで夏休みに入った日の子供のよう気持ちである。しかも、こちらには宿題がない。

  制約と言えば、帰りの航空便が予約されていることと、期間指定のユーレールパス(ヨーロッパの鉄道乗り放題のパス)を買ってしまっていることで、貧乏性の私としては、これを出来るだけ多く使って、元を取ろうとするだろうということにある。

  このような呑気な旅は初めてで、どうなることやらと思っていたが、案するより生むが安しで、しばらくするとリズムが出来る。そして、その一つ一つのリズムに喜びを感じ、至福の時が流れた。

旅行から帰ってもう何ケ月にもなるが、このリズムのことを書いておかないと旅が終わった気がしないので、書いておくことにする。

  一人旅のリズムとは ― どこへ行くか決める。列車を確認する。(座席の予約をする。)駅へ行く。汽車に乗る。景色や人を楽しむ。駅に着く。降りる。案内所へ行く。ホテルの手配をする。(あるいは、直接ホテルを探す)ホテルにチェクイン。観光に出る。夕食を取る。ホテルへ帰る。どこへ行くか決める。列車を確認する。といった一連のリズムである。

その一つ一つが楽しく、それが毎日続くのだから、たまらない。

どこへ行くか

旅の楽しみの大半は、どこへ、どのように行くかを決めること、そして、そこへたどり着くことにあると、私は思っているので、この最も美味しい所を大部分ツーリストに委ねる、所謂パック旅行は馴染めない。逆に自分でたどり着くことを苦労だとすれば、その苦労をゼロにするツアーは、いきなり山の頂上に降り立って、絶景かなと眺めるのに似ており、それには別の楽しみがあるのだろう。そして、どこへ行くかは、大袈裟に言えば、その人のこれまでの人生がしからしむのであって、私の場合、今回、行き先は、主として南ヨーロッパを回ろう。あわよくば、ギリシャへもと思っていた。

二,三見たい所もあったが、知らないからちょっと見ておきたいといった程度の所が多かった。サラマンカは、私の知人では最大の海外通の桧山さんの推奨。アルビはロートレック、カッセル、マーブルクはグリムのゆかり。フォンヴェイユはドーデーの「風車小屋たより」の風車が残っているから、というのが理由といえば理由であるが、選択はちょっとしたきっかけで行われる。まず何も知らないのだから、選んだのも偶然である。どこを選ぼうと、誰からも賛成も反対もされないこと、さらに、自分以外に迷惑を掛ける人がいないということが、一人旅の良い所である。その意味で、細君は理解者のようで、最大の批判者でもある訳だから、彼女に災難の降りかかるようなことは避けたいと思うのが人情で、所謂パックツアーが無難だと思うが、もし、苦労を共に楽しめるような夫婦なら、二人だけの旅は最高であろう。

出発前には、各国の観光局へ行き、資料を集めたが、結局、旅に持参したのは、『トーマスクックの時刻表』と『地球を歩く ― ヨーロッパ』の2冊で、これで必要かつ十分であった。いずれも大変よく出来ている。旅行しながら、これを見て、次の行き先を決めるのであるが、重要なことは気侭に選ぶこと。これは私が生来我侭な人間であることよるのかもしれないが、どんな場合でも、実際に来てみると、やはり、そこには、想像とは異なる世界があって、やはり来て良かったと感激の連続であった。いわば、出任せ、良く言えば、直感力を働かせて、移動して行くのであるが、渡り鳥のように気ままな旅を続けるためにも、先々の列車やホテルを予約しないことである。

このような事が出来るのは、大抵の所に、旅行案内所があり、ホテルが簡単に取れるヨーロッパだからも知れない。

繰り返すが、一人旅の良い所は、意見が分かれないこと、100%自分の好きに出来ることである。こんな事は人生の中では殆どなく、神様のような気分になれる。

列車を予約する。

行き先と乗る列車が決まると、切符の手配ということになるが、ユーレールパスを持っているので、寝台車、新幹線は別として、直接その列車に乗り込んで良い。しかし、時刻表に出ている列車が動いているかを確認し、不安要素を消しておく意味から、出来るだけ、事前に、駅へ行って指定券を取った。これは結果論であるが、込み具合から言うと、イタリヤ以外はその必要はなかった。

駅は、どこも能率が良く、マドリッドなどでは銀行の窓口のように、番号札をくれるので列を作るということもない。窓口のサービスの迅速さは日本に劣らない。

行き先や日を間違えられると目も当てられないので、出来るだけ紙に書いて見せるようにした。

汽車に乗る

さて、鉄道によって移動するのであるが、その鉄道たるや既に150年の歴史を持ち、1960年代以来、交通の主役が航空機、自動車が次第に移ってから、斜陽化していることは否めないものの、逆に、一種の歴史的遺物として郷愁を誘う。列車を含む全設備がややくすんでおり、乗客も少ない。日本の鉄道に較べると清潔さの点でではやや劣るが、味がある。もっとも、最近の所謂新幹線はスペイン、フランス、ドイツとも立派なもので、日本を凌駕していると思う。また、繁盛しており乗客も多い。

駅には30分ぐらい前に行くのだが、面白いことに、どのホームから発車するかは予め決まっておらず、ひどい時には5分ぐらい前まで表示されない。ホームは大きなところでは、終着駅のように櫛形になっている所も多く、(上野駅の常磐線ホームのようなもの)ホーム間の移動は簡単に出来るので困らない。

自分の乗る列車のホームが分かれば、それだけで嬉しい。

そして乗り込む。予約してあれば、コンパートメントに予約の紙が差し込まれている。列車の予約は発車時刻の3時間前となっているのは、このような事が手作業でなされるためである。

大抵は6人がけのコンパートメントで同室の人が気になる所であるが、ユーレールパスは1等車であるから、客は、お金持ち、社用族、そしてユーレールパスの旅行者である。

立派な紳士の横に、Tシャツに半パンのアメリカの若者という組み合わせも珍しくない。

駅を離れるとすぐに田園風景が開けて来るのも驚きであるが、また、その景色も素晴らしい。目線の高さが、汽車はバスよりは少し低いのではと思う。それだけ親しみやすい。

人との会話は余り生じない。本を読む人、ゲームする子供。景色が余り良いとそんな人に

注意を促したくなるのだが、それはできない。大抵はラジオの音楽を聞いているのだが、それが、その土地の風景に合っていて、テレビの名曲番組のように、飽きることがない。汽車の旅はそのように時間が流れる。食堂車が付いていれば、そこでは、さらに幸せな時が約束されている。

ついでに夜行列車について書いておくと、リスボン ― マドリッド、マドリド ―バロセロナ、ローマ ― ウイーンと3回乗ったが、これもそれなりに面白い。外の景色を楽しむ時間は少ないが、寝ている間に移動し、全員が車掌にパスポートを預け、その支配下に入るので安全な気がするし、国越えの手続きも車掌がやってくれるので、ぐっすり眠れる。さらに良い点は、目的地に朝早く着くということである。目的地に朝着くと大抵の変事にも対応出来るし、その日一日がフルに活用出来る。

駅に着く

『トーマスクックの時刻表』の日本版は、最初の何頁かは日本語で書かれており、そこに、大きな都市の駅の見取り図があって、大変便利である。

その見取り図を一応頭に入れ、ホームに降り立つのであるが、予め想像しているものとは、随分違う。良い方にはずれ、遥々来たという気分も手伝っているのかもしれないが、駅に着くと感動する。

鉄道の駅は、ある時期には、その町の玄関の役を果たしていた訳であるから、オルセー美術館が元は駅舎であったことから解るように、立派な(だった)ものが多い。

ミラノへ行って、鉄道の中央駅statione centraleは知らないのは、東京駅を知らずに東京を回る以上に、画龍点瞳を欠く。大きな駅はだけでなく、小さな駅もそれなりに、時の流れに洗われて、風情があり、鉄道華やかなりし頃の、栄光の輝きを留めている。清潔さにおいては日本の駅の方が勝るが、逆に日本の鉄道の駅舎はどうしてこうつまらないのかと思う。

乗り降りする客は少なく、その分、駅員の数も日本に較べて少ない。これが駅の古さとあいまって、哀愁を呼び、ふと、モノクロ映画の中に入った気分になることがある。駅は、別れ、すれ違い、再会とドラマの格好の場所を提供してきた。

大きな駅は制服のお巡りさんが二人一組で絶えず巡回していて、旅人に安心感を与えてくれるのも嬉しい。

それに較べ、空港の個性の無さは、コスモポリタン時代を象徴するかのように画一的で余り印象に残らない。

    トイレ

駅に着いて、先ず、することはトイレに行くことである。用便のことは、海外に出ると重要な事柄なので、敢えて書いておきます。

列車の中で済ませておけばと思うのであるが、なかなかそうはいかず、一種の興奮も手伝い、降りてからしたくなる。

駅のトイレは様々だが、小さな駅では、無人のコイン式だったり、大きな駅では地階のこともよくあり、有料である。ちょっと大きな駅はおばさんが番をしている。コインを入れてゲートを通過しなければならない所もかなりある。大きな荷物を持っているものにとってこれは難物で、こんな時、仲間がいればと思うのであるが、私は番しているおばさんに見ていてもらうことにしている。チップの元を取るようで気持ちが良い。

用便という儀式が終わると、もうその街の子になった気分で、大きな顔をして歩いている自分を発見し、糞度胸とはこのことかと良く思った。

海外旅行のコツの一つは自然の要求Call of natureに如何に対応するかにあると思うので、もう少し書いておこう。何しろ、時差で体内のリズムが狂っている上、食べ物も異なるから、思わぬ時に自然の要求が来るが、これに対抗するためには、こまめに用を足しておく以外にはないと思う。美術館のトイレは無料。無料といえばレストラン(何も注文せずに、トイレだけ借りるのはちょっとやりにくいが)。ある時トイレを借りようとマクドナルドに入って、ビールを一杯飲んでから、場所を聞くと、二階にあると言って、暗証番号を教えてくれた。二階に着いた時、悲しいかなその番号を正確には思い出せなくて、ドアが開かない。目を白黒させながら、もう一度下に聞きに降りたこともある。これはリスボンでのこと。悲喜こもごもの思い出を持つ人が多いのではないか。

両 替

新しい国に着いたら、先ずやらなければならないことは、その国の通貨を得ることである。

どこで両替したら良いか、色々と説があるようだが、私のように殆ど買物せず、ホテル、レストランはカードで払うので、換算率を気にせず、駅で両替することが多かった。

換算レート×金額 ― 手数料 =手取りとなるのだが、手数料が高い所(ホルトガルなど)では、小額を何度も両替すると損をする。私が気にしたのは、その国の通貨をその国で使い切ってしまえるような額を両替することで、両替を繰り返すたびに手元の金が減るし、コインが残ると始末に困る。

アメリカン・エクスプレスやマスターカードなどのキャッシングサービスはその端末機が、駅を初め、いたる所にあるので、料率は知らないが、これを使うのは便利だと思う。

暗証番号が必要。カードといえば駅で切符を買うのも、食堂車での支払いもこれで出来る。

観光案内所

大きな駅には旅行者のための案内所インフォメーションがある。そうでない所は旧市街地、つまり観光スポットの中心にあり、そこまでは1、2キロもあることがあるから、その心積りでいなければならない。ツールーズのような都会でもそうであった。

案内所で何をするかと言えば、街の地図を貰う。宿を予約する。町の歩き方や良いレストラン等を聞く。旅行者の聞きたいことは類型的なのであろう。その対応の手際良さには本当に感心する。

ホテルの予約一つにしても、電話でする所、コンピューターを使う所、手数料を取る所、とらぬ所、様々であるが、いずれにしろ、そのサービスはスマートで申し分ない。

駅にはもう一つインフォメーションがあり、この方は目立つ所あるのだが、これは、鉄道の情報だけである。ドイツでは答えをコンピューターからのプリントアウトも呉れる。乗り継ぎまで、詳しく書いてあるのだが、中身をよく読まないと、とんでもないことになる。

駅前ホテル

ホテルは、ほとんど駅の近くにした。勿論、駅の中であったり、横であったりもするが、案内所に行かず、直接駅の近くのホテルに当たることもした。

駅前ホテルの有利さを発見したのは、たまたま最初の頃、駅前に泊って、これは便利と気づいたのと、安全のためである。

例えば、バロセロナでは、危険な噂を沢山聞かされていたので、憂うつな気分で列車を降りたが、駅の構内で、ふと見ると、ホテルの看板が見える。ゴロゴロと荷物を曳いて、行ってみると、なかなかパリッとした四つ星のホテルで、少々高いが(と言っても、邦貨一万数千円)申し分がない。東京ステーションホテルに泊っていることを想像してもらえばとよい。

大抵の人は、タクシーに乗って、都心の立派なホテルへ泊ろうとするのではないかと思うが、知らない土地をタクシーで走っても、何の土地勘もできないし、着くまではなんとなく不安で、その上、チップをいくら上げればよいものかなどとつまらぬことに心を奪われ、やっとホテルにつくとそれだけでどっと疲れが出るのが普通である。

また、次の所へ移動する時はホテルにタクシーを呼んで貰うことになる。

駅前(中、傍)のホテルの良さは、数分歩いて、ホテルへ行き、チェックインし、ホテルへ荷物を放り込めば、直ちに空身で見物に出かけることが出来る。また、こんな良いこともある。翌日のプランが夜10時頃決まった場合、すぐに駅へ行って、列車確認し、要すれば切符を買って帰り、安心して眠りに就くことができる。なんと言っても、駅に行けば大抵のことは用が足せるようになっている。

 ホテルの選び方であるが、高いホテルが良いのは当たり前として、邦貨六千円から八千円(朝食込み)でも、十分満足できる。10室とか20室の小さなホテルであるが、清潔であり、風呂がなく、シャワーだけであったり、エレベーターが無かったり、多少の難はあっても、朝食も立派なもので、家庭的で心が休まる。日本のつまらぬビジネスホテルの狭い部屋に泊った時のわびしさはまったくない。ひとつ注意すべきことは、駅の周辺が、必ずしも一等地ではないことで、その辺りの感じは、日本の駅の周りに近い。

 駅に着いてから宿を探して大丈夫か、と言う人がいるが、四週間のうち、ほとんどスムースに取れた。これはヨーロッパだからかもしれない。一度だけ取れずに困ったことがあった。それは、フレンチェのことで、その時、大きな見本市が開かれているのを知らずに来たためであった。(この手のイベントは日本でもあらかじめ分かる。その期間はホテルの料金も高い。)

町を歩く

パリやロンドンのような大都会は別として、鉄道の駅と観光スポットとは少し離れているのが普通である。中小の都市の場合はこんな具合だ。中世、河の傍に町が出来る。それが次第に発達する。鉄道が生まれた頃には一応街は完成しており、町は壁で囲まれている。そのような所に鉄道を通そうとすると、町から一キロ前後離れた所になる。我が国の新幹線が出来た時のことを思えばよい。そして駅前が発達して、人家が旧市街に接するようになる。市壁が自然になくなる。(場合により一部残る)そして、大きな町となる。

従って、観光スポットである旧市街へは、鉄道の駅からは、歩くと少しあるので、市電やバスに乗ることになる場合が多い。一日乗り放題の切符を買うのも良い。

ロンドン、マドリッド等の大都市はもうそのような単純な配置になっていないのであるが、その場合は、地下鉄と観光バスが発達していて、これを利用することになる。

大都市の場合、観光バスが観光スポットを絶えず巡回していて、ガイドが街を案内しており、降りたい所で降り、例えば、美術館の見物を済ませて、又次の観光バスに乗って、移動する。一日中何度乗っていてもよく、マドリッドやバロセロナなど恐い街ではこれが有り難い。乗っているのは、ガイドと観光客ばかりなので安心感があるし、疲れている時

は、乗っているだけで、案内付きで街を回るのであるから、最小限の要求を満たしてくれる。この手の観光バスには殆ど日本人が乗っていなかったのは、不思議なことである。

ローマの観光バスは市営で安い。一人が伊仏英の三カ国で案内してくれる。言葉が良く分からなくて、英語の説明の時にはもう、その箇所を通過していることもあり、隔靴掻痒の感があるが、これでローマを二周した。しかし都市の全容を掴むのに役立つが、これだけでは物足りない。アフリカのサファリを安全な柵付きの車でするようなもので、インパクトに乏しい。やはり自分の足で、探して行かねばならない

地図を便りに、又、人に聞きながら歩くのであるが、街角を右に回るか、左に回るか、全く自由で、目的地に着くまでのゲーム的プロセスが楽しいのである。間違っても、誰も咎める者はいないが、目的地に着かないだけである。この点、ツアーの人たちと違うが、目的地に着いただけで満足して、肝心のものを見る気が起きないこともある。

役立ったのは、山歩きの経験であった。道標のない大峰や京都北山などの山旅。そして、五万分の一の地図だけが便りの徒歩旅行。一人旅をしていると、昔、一緒に歩いた人のことが絶えず思い出された。類似の体験だからであろう。また、自分の判断力と体力を図りながら歩く単独行の経験が役に立った。色々と迷った経験が必要だと思う。山登りと言えば、早立ち早着きが鉄則であるが、この習慣のお陰で、ブレナム宮殿、カッセルのグリム博物館は一番乗りで楽しむことができた。

絶えず、誤りを犯しながら歩くのであるが、これはベネチィアでのことである。ここでは大運河を水上バスに乗って移動するのであるが、ひょいと飛び乗ったのが、方向が誤りで、ベネチィアの裏側、島の外に出てしまった。そこで見たものは、普通の都市とは逆に、トラックで運ばれて来た貨物を船に移している姿や、ベネチヤ港に横付けされている、巨大な2隻の客船で、華やかな舞台の裏側がどうなっているかを見せて貰った。

誤りは神様のご配慮と、有難く喜ぶこと。六十歳を過ぎてやっとこんな旅を楽しめるようになった。

路上の音楽師たちに耳を傾けたり、つい誘惑に負けて、スイカや桜ん坊を買い食いしたり、とぼとぼと石畳の道を歩いたり、乞食に会ったり、街を歩く楽しみは旅行の大きな部分を占める。

(所謂観光の目玉であるスポット、教会や美術館については、別の所で触れる。)

     アヴィニヨンの橋 ♪アヴィニヨンの橋の上で、輪にって,踊ろよ・・・♪と踊りだしたアメリカ娘

旅の安全

海外での恐い話を色々と聞かされるので、これで海外旅行がいやになる人もいるかもしれない。実は、リスボンで、これから一人旅を楽しもうと思った矢先、スリにあってしまい、頭の中が真っ白になるという経験をした。そのことの顛末はスリの顔の表情を含め、

ありありと脳裏の焼き付いているのだが、書くと長くなるので、ここでは述べないが、スリには一度くらい遭った方が良いのではないかと思う。それから、用心するようになったし、スリ経験者としての自信もついた。我々は、少しでも、旅行者でなく見せようと工夫するのだが、そんなことはスリの目にはお見通しで、つまるところ、取られないようにするしかない。ナップザックを背負わずに体の前にしている女性を時々見かけたが、恰好の良いものではない。何と言っても、腹巻きに優るものはないようで、アメリカの若者たちも愛用しているようであった。そして、スリに遭った戦訓は、現金、トラベラーチェック、カードは分散して持つべきだということである。

危険とされる所に一人で行かないことも当然のことであろう。

言 葉

言葉を知らずに外国に行くのは、泳げないのに水に飛び込むようなものと言うが、それはある意味で、当たっていると思う。イギリス以外では英語が通じないでしょうと言う人がいるが、英語が話せれば、旅行者の必須の場所である、駅、ホテル、旅行案内所で困ることはない。その英語が話せないから苦労するのである。

観光客の行かない店や市井の人とは、英語が通じないが、それは当然のことである。通じないのが海外旅行の面白さ?と言えなくもない。

言葉以外に、人と人とはコミュニケーションでき、身振りだけで、結構用を足りるものである。レストランもその一例で、慣れれば、一言も発せずに食事を楽しむことが出来る。話せると更に楽しいが・・・道を聞くにしろ、どんな人に聞くと良いか、なんとなく分かってくる。5ヶ国語会話帳を気休めに持ち歩くが、これは本当に気休めで、挨拶の言葉以外に、余り使うことがない。

レストランに行く

マクドナルト風の店は論外として、駅などによくある、お盆の上に、欲しい物を実物を見ながら取っていって、レジで清算するカフェテリヤも、一見、自分の好きなものを食べることができて良さそうに見えるが、これは満足を与えない。食べ物を買って、ホテルの部屋で食べるのに較べると良いにしろ。

それらには、席に着いて、メニューを見て、選択する楽しさがない。ウエイターやウエイトレスと一言二言、言葉を交わして注文する楽しさがない。果たしてどんなものだ出てくるかの不安と喜びがない。味わいながら自分の選択がよかったことを歓ぶということがない。途中でうまいかどうか聞きに来てくれない。最後に、勘定をチエックして、チップを渡し、双方が「ありがとう」と言うチャンスがない。

このようなことを楽しむためには、最小限、メニューが読める(と言うと英語のメニューがある)ことが一つの基準になる。超高級なレストラン以外は、店の外にメニューが出ているで、それを見ればわかる。出来るだけ英語のメニューも掲げられている所へ入る。観光地の目抜き通りではよく日本語のメニューも見かけたが、これはよほど日本人が来る所と思って良い。

メニューと言えば、こんなこともあった。トールーズで名物の煮込み料理カスレ?を食べようと、ホテルで聞いた情報をもとに、あるレストランへ下見に行って、店の前のメニューをしげしげ見るがよく判らない。中から店の人が出てきてどうしたのかと言うから、英語のメニューはないのかと言うと「ある。ちょっと待て」と言う。中から若いボーイが出てきて「私が英語のメニューだ」という。フランス語のメニューを指差しながら、ひとつ一つ英語に訳してくれる。そのボーイとはなんとなく打ち解けて、席を取ってもらい、一風呂浴びて、夕方、行ってみると味も良し、サービスとも申し分なかった。

(帰国後、食べるためだけの会話帳があるはずだと、探してみると、日立造船の眞鍋忠義さんという方の書かれた『グルメの旅のパスポート―五か国語メニューの読み方』燃焼社というのが見つかった。)

 レストランは旅行案内所やホテルの人に聞いて選ぶ。「この土地の昔からの料理を食べさせる老舗のレストランで、そんなに高くない所」を教えて欲しいと聞き、地図に印を入れてもらい、ついでに名前も書き込んでもらう。こんなことをしながら、初めての土地に馴染んでゆく。そして、見物の行きか、帰りに下見して、良さそうなら、そこにするのである。  

地元の人に聞いて選ぶのだし、何よりも、一日中歩きまわって腹を空かせてのことなので、土地のビールを飲みながら選んだ料理は、この上もなく美味しく感じられる。特にラテンの国では、おいしさが、まず、脳味噌の天井にドンと突き当たり、やがて全身を震わせるが如く伝わる。神様が、お前にも、この世の美味しいものを味あわせてやろうとしておられるかのようである。ワインは、昔は一本空けることができたが、今はハーフボトルで十分である。もっともらしくワインリストも見るが、選ぶ力があるわけでもなく、もっぱら値段を見ているのでる。結局、ウエイターの推奨に従うのであるが、そんなやり取りをしているうちに、次第に寛いでくる。ただ、一つ問題は、独りで行くとその美味しさの感激を分かち合える人がいないことである。山上憶良ではないが、つい故郷が偲ばれる。

ヨーロッパは男女ペアの世界で、男でも、まして女性の場合、良いレストランでは一人で食事をするのは、場違いな感じがする。これは、一人旅の問題の一つかも知れない。料理の美味しさがそれをカバーして余りがあるが・・・

  就眠と目覚め

夕食を済ますと、後はホテルへ帰り、寝るだけであるが、翌日の列車の確認がまだであれば駅に寄り、必要があれば、座席の予約をする。駅前ホテルだと駅に何度行っても苦にならない。洗濯物がある場合は、昼間から洗剤に漬けておいた洗濯物をざっと濯いで干すと、翌日には乾いている。ベッドでテレビを見たり、『トーマスクックの時刻表』や『地球の歩き方―ヨーロッパ』などを繰っていると、すぐに睡魔がやって来る。ベッドはどこでも清潔で、安眠を約束してくれる。蚤しらみの心配は一昔前のこと。

朝、目を覚ます。食事である。小さな食堂の、簡にして、決して粗末でない朝食は心落ち着くひと時である。前日、受付にいた娘さんが、コーヒーがいいか、紅茶にするか聞きに来てくれる。大きなホテルのように、朝から、目を見張る程のご馳走はないが、団体さんに合わないので、いかにも、一人ゆったりと一日の初めを過ごせるのは有難い。

そして、今日一日が始まる。最初に戻るが、駅へ行く。汽車に乗る。景色や人を楽しむ。駅に着く。降りる。案内所へ行く。ホテルの手配をする。(あるいは、直接ホテルを探す)ホテルにチェクイン。観光に出る。夕食を取る。ホテルへ帰る。どこへ行くか決める。列車を確認する。といった一連のリズムである。

初夏の、美しいヨーロッパで、このようなリズムに乗ってしまうと、永遠に旅を続けたいような気になる。

 一人旅のリズムは、ひょっとしたら、神様のリズムかもしれない。

(以上は2000年6月―7月、英・ポルトガル・スペイン・仏・オーストラリヤ・独の旅からの感想   2001年1月『遊山28』に掲載)

付録ホテルはどうしたか?
   
スリに遭った。掏られた。どうしたか?(口伝)
   トーマス・クック時刻表の見方(口伝)

   寝台車・食堂車(口伝)
   ユレールパスは得か(口伝)