鈴木真理のロンドン通信 No.96

                       野村萬齋ハムレットのロンドン公演 3 名作への挑戦

私がハムレットを見にいった日、観客の多くは20代前半とおぼしき若い日本人でし
た。ロビーにいると彼らの会話が自然と耳に入ってきます。「ところでハムレットっ
てどんな話だったっけ。」「知らなーい。」「ロンドンには長くいるけど、シェイク
スピアなんて見に来るのは初めてだよね。」「うん。」「お奨めだよっていわれたか
ら来てみたけど、最後まで見てられるかな。」ハムレットがイングランドに送られる
ところまで劇が進み、幕間の休憩になると、「これでこの話は終わりかな」とささや
きあっている人達もあり、シェイクスピアは初めてという観客の多いことがわかりま
した。この公演のおかげで、どのような理由にせよ、今までシェイクスピアに縁のな
かった人達が劇場に足を運んだわけです。しかも演出、セットなどは英国トップクラ
スのアーティストが担当、キャストには日本の意欲的な若手俳優が顔を揃えていま
す。日本の伝統芸能の上に新しいものを創り出そうとしている人々です。この日初め
てシェイクスピアに触れた人達が、これを機にさらに演劇に興味を持ってくれるとよ
いのですが。

さて私にとってこのハムレットは、新しいハムレット像を提示してくれる大変興味深
いものでした。シェイクスピアの時代は、イギリスのルネサンス時代として位置づけ
られています。開演前から舞台では、ブラウンがデザインした大きな木箱がゆっくり
と回転していました。木箱の表面は城の絵が大きく描かれ、デンマークの海辺に立つ
エルシノア城を示していることがわかります。裏面はいくつかに区切られており、そ
れぞれに違った絵が描かれています。例えば骸骨、砂時計、地球儀、リュート…。こ
れを見て私は、ロンドンのナショナルギャラリーにあるハンス・ホルバインの「大天
使たち」という絵を思い出しました。ルネサンスの栄光を表す様々な発明品が描き込
まれた絵に、隠し絵の手法で骸骨が浮かび上がるようになっています。ルネサンスの
栄光と、死を超越することができない人間存在の虚しさ、これはルネサンス人が抱え
る相矛盾した人間観でした。この木箱の絵により、開演前から私は、今回のハムレッ
トは「ルネサンス人としてのハムレット」であることを印象づけているのではないか
と感じました。

箱が開いてエルシノア城内の場面になると、その予感はますます強くなりました。箱
は宝石箱のように縦横9つの部分に区切られ、中央の仕切りに王と王妃が座っていま
す。周囲の仕切りに座る家臣たちは王を正面から見ることができず、斜め、あるいは
横から、手鏡を掲げて見るようになります。これはルネサンスの芸術的表現であった
マニエリスムやパースペクティブという手法につながっています。また王や家臣たち
は皆、大きな襟飾りをつけています。これはルネサンスに流行したファッションで、
今回のハムレットとルネサンスとの関連を端的に示しています。

今回ハムレットの日本語訳を担当したのは、河合祥一郎氏です。彼はその著書で、
シェイクスピアが生きたルネサンス時代がハムレットとどのように関わっているかを
詳細に分析し、独自のハムレット像を打ち出しています(謎解き『ハムレット』名作
のあかし 河合祥一郎著 三陸書房 2000年10月初版)。その中で彼は従来の「優柔
不断で虚弱な哲学青年」というハムレットのイメージに代えて「復讐への押さえがた
い激情を爆発させる」ハムレット像を提示しています。それは自分自身の人間として
の弱さとの戦いでもあり、自分を激しく罵ることにになります。ところが第5幕にな
るとハムレットは変貌を遂げ、すべてを神意にゆだね、人間としての弱さを認めた上
で行動しようとするようになります。

ここで今回のプロダクションに戻ってみると、野村萬齋のハムレットはデイリー・テ
レグラフ劇評が指摘しているように、独白でも激情を爆発させる「激情のハムレッ
ト」です。そして「幸いなことに、野村は最後には少し落ち着きを見せ、ついに死と
運命を受け入れる諦観の場面は、非常に心を動かされる。(ロンドン通信95)」とあ
るように、野村のハムレットは終盤で変貌を遂げます。つまり今回のハムレットは、
河合祥一郎氏の研究に沿った新しいハムレット像を提示しているのです。

ロンドンの新聞劇評では、新しいハムレット像の提示や、ハムレットをルネッサンス
の時代精神と関連づけて捉えている点を指摘したものが全くなかった(あるいは気づ
いていなかったのかもしれませんが)ことを非常に残念に思います。こちらで販売さ
れていたプログラムにも、そういった意図を示唆するような文章が載っていればよ
かったのにと思いますが、スタッフおよび俳優の簡単なプロフィールしかありません
でした。このような点も含め、宣伝やマーケティングにもう一工夫あればと感じまし
た。

03・9・13