鈴木真理の
       ロンドン通信 
86

    ジョージ・バーナード・ショーの隠れ家
 
ブルーベルの花を探しにアイオット・セント・ローレンス村に出かけた(ロンドン通信85)のには、もう一つ理由があります。英国が生んだ20世紀最大の劇作家・批評家であるジョージ・バーナード・ショーが、1950年に94歳で亡くなるまで住んだ家があると聞いていたからです。
 
森が見つからなくても、ナショナル・トラストの所有となって保存されているショーの家を見てこようと思っていました。幸運なことにまずブルーベルに出会い、そこから車で数分の所に、ショーの家(Shaw’s Cornerと呼ばれています)を発見しました。家の前の道も、車がやっとすれ違えるほどの細さです。
 
この家は、もともと教区牧師の牧師館として建てられたもので、部屋が10ほどある立派なお屋敷です。家の裏には広い庭があり、その先には森と田園風景が広がっています。
 
バーナード・ショーは1856年、アイルランドのダブリンで生まれます。父親はアルコール中毒で、手がけていた商売にも失敗。母はプロの歌手でしたが、夫と息子を捨て、自分の歌の先生であった男性とロンドンで所帯を持ってしまいます。この時ショーはまだ15歳でした。このような家庭環境であったため、ショーは学校が嫌いで大学にも行かず、アルバイトのような仕事をしていました。そして20歳の時、母を頼ってロンドンにやって来ます。
 
文筆で身を立てることを決心したショーは、独学で知識を習得します。ロンドンにある公立図書館や大英博物館の閲覧室で、むさぼるように多くの書物を読んだそうです。やがて政治に興味を示すようになり、ハイドパークのスピーカーズ・コーナーで即席の演説台から熱弁を振るったり、社会主義を支持する政治集会で演説するようになります。この経験から彼は、人を引きつけ、エネルギーに溢れ、自説を力強く展開する話し方を習得していきます。そしてこのスタイルは、彼の著作にも反映されています。
 
1884年ショーは、ウェッブ夫妻と共に、「民主主義的手段によって英国に社会主義を段階的に導入する」ことを目的としたフェビアン協会を設立します。これはのちに、労働党(the Labour Party)の誕生につながります。労働党は現在、トニー・ブレアを党首に政権を担当しています。
 
ショーはこの他にも母親譲りの才能で音楽評論を書いたり、劇評を書いて活躍するようになります。また自分でも多くの演劇脚本を書いています。彼にとって演劇とは、社会を改良していくための道具であったようで、娯楽のためだけの演劇には批判的でした。
 
ショーはこのようにロンドンを中心として活動を行ってきましたが、50歳の時にアイオット・セント・ローレンス村に別荘を取得します。今もそうですが、当時も総戸数50戸ほどの小さな村だったそうです。ロンドンにも住居があり、村の家は主に週末を過ごすためのものだったそうですが、次第にここで過ごす時間が増えていったそうです。
 
1925年にノーベル文学賞を受賞しているこの大作家は、その主要な作品をこの村で執筆しています。家には立派な書斎がありますが、彼には執筆活動をするのにもっとお気に入りの場所がありました。それは庭のはずれにある小屋です。
 
この小屋はちょうど畳2枚分くらいのスペースですが、回転式の土台の上につくられています。太陽の光に合わせて、小屋の向きを変えられるようになっているのです。内部には仮眠用の簡易ベッドと机があり、電話が設置され、電気も通じています。
 
文明の利器が手の届くところにありながら、一歩外は森の広がる大自然。こんな素晴らしい環境で、彼は誰にも邪魔されず著作に没頭することができました。世界的な著名人となった彼の元には訪問者が絶えなかったようですが、彼がこの小屋にいるときは使用人も、「主人は外出中です」と堂々と言い訳できたそうです。
 
アイオット・セント・ローレンス村は、ロンドン中心部から約50qのところにあります。ショー夫妻は運転手付きの車でロンドンを往復したそうです。都会とカントリーライフの両方を楽しむことができる、これもロンドンの魅力の1つです。
 
03・05・23