アリスとチェシャ猫の対話(72)


322 猫: おもしろいリストができていますね。もう少し続けると「不思議の国のアリス」の続編の筋書きができそうです。いかがですか。「不思議の国より不思議な国のアリス」というような題でお書きになっては。それとも「悪夢の中のアリス」でしょうか。

 さて、話を続けます。仏教でもキリスト教でも、ある意味で「自分を無くす」ということを言います。けれども私は、これは「自分」というものの定義をしっかり考えないと誤解する教えだと思っています。「自分」というものはそれほど簡単になくならないし、なくす必要もないのです。

実は、私たちが「自分」だと思っているものは、ほんとうは「自分」ではありません。私たちは「これが自分だ」と思う観念を持っているに過ぎないのです。名前、性別、年齢、容貌、性格、過去の業績(行跡?)或いは肉体、感覚、感情、思考、能力、意志・・・そういったものの集積を自分だと思っているのです。意識の中に、あるテリトリーをつくりあげ、それを自分だと思っているのです。

「自分をなくせ」という教えは、このような自分でないものを自分だと思うことをやめなさいということだと、私は解釈しています。

では、本当の自分とは何でしょうか。以前(148)にスポットライトのたとえをお話しました。私たちは、意識の暗闇の中でスポットライトを照らし、その光に照らし出された部分を「自分」だと思っています。けれども、本当の自分というのは光を照らしているものであって、照らされている部分が自分ではありません。

別のたとえをあげます。アリスさんが自分の肖像画を描いて「これが私だ」と言います。けれども、アリスさんは絵ではありません。絵を描いた者です。どんなにしても、絵を描く者が絵になることはないのです。

そこで、私は、アリスさんのリストを、こう書き換えたいと思います。

 B何故不如意が発生するのか?

 C自分でないものを自分だと思うからだ

ここまでのところはいかがお考えになりますか。

323 アリス: <仏教でもキリスト教でも、ある意味で「自分を無くす」ということを言います。けれども私は、これは「自分」というものの定義をしっかり考えないと誤解する教えだと思っています。「自分」というものはそれほど簡単になくならないし、なくす必要もないのです。>とありますが、仏教、キリスト教、では「自分」=エゴ、猫さんがここで言っておられる「自分」は「霊としての自分」ではないでしょうか?ちょっと議論がかみ合っていない感じがします。

スポットライトのお話は大変面白く、322を戴く少し前に、たまたま、読み返しておりました。

私の考えは、自分の自問自答を引用するのも変ですが、

 (27)言葉を使い始めたからだ。 これは「霊としての自分」の発生で、言葉=スポットライト。

 (36)名前を付けているうちに、付けている自分がいると思うようになった。

(42) 多分、時間(White Rabbit))を見たときからだと思う。深い穴(The Rabbit

Hole)に落ちて、気が付くとここに来ていた。

このあたりでエゴが発生。猫さんのお説は、エゴが映し出した強烈な物質世界に仮定される「自分」だと理解します。したがって<B何故不如意が発生するのか? C自分でないものを自分だと思うからだ。ここまでのところはいかがお考えになりますか。>に対しては賛成です。

なお、「不思議の国より不思議な国のアリス」は良い題ですね。少しずつ書いていくことにしましょう。

324 猫: 私も、言葉、名前というものが、重要な働きをしていることについては、まったく同感です。アリスさんのするどい洞察に敬意を表します。けれども、このことについては、あとで戻ってくることにしましょう。

さて、私の方の話をもう少し続けさせていただきます。

次に、「309アリス」の

Dどうして自分があるから不如意が発生するのか?

E物事が自分の意志に反して変化するからである、

F何故そうなのか?

G総てが固有のものをもたず、変化するからである。

という部分ですが、Eは、物事が「自分の意志に反して」「変化する」という二つのポイントを持っています。これに対して、Gのお答えは「変化する」ということに対しては答えていますが、「自分の意志に反して」ということに答えていないように思います。むしろ、問題は、物事が変化することにあるのではなく、「自分の意志に反して」変化することにあるのではないのでしょうか。何も変化しなかったら「如意」「よいこと」も起らないわけですから。

 この点は、どう考えておられるのでしょうか。

325 アリス: 「自分の意志に反して」変化することが、不如意の原因です。

326 猫: なぜ自分の意志に反する変化が起るのでしょうか。物事が、「自分の意志」とは無関係に存在しているからでしょうか。

 もし、そうなら、なぜ物事は「自分の意志」と無関係に存在しているのでしょうか。

327 アリス: <無関係に存在している>しているかどうかという猫さんの問題意識が良く分からないのですが、譬えで言うとこんな感じになります。

今、雑踏の中にいるとします。<G総てが固有のものをもたず、変化している>とします。私がある方向に進もうとします。雑踏が違う方向に動くときは不如意です。もちろん同じ方向のときは良いわけです。「自分」を意識し、さらに、その自分がある方向「意志」を持ったときに不如意が発生します。もちろん「如意」「よいこと」も起きます。自分が止まろうと思ったときも同じ現象が起きます。

その意味では、雑踏(物事)は「自分の意志」と無関係に存在している、とも言えるし、私も雑踏の一員として、私が動くことによって双方に影響を受けるのですから、大いに関係しているとも言えると思います。

328 猫: 雑踏のたとえは非常によくわかります。要するに、アリスさんが抱いておられるイメージでは、人間はみんな雑踏の中のひとりであって、たまたま周囲の動きと自分の意志が合致すれば「よいこと」が起きるし、合致しないと「不如意」を体験することになる、というわけですね。

 (1)けれども、もしそうであれば、不如意が発生することは避けようがないし、不如意はなぜ起るかと尋ねて見ても無駄だし、何とか不如意に出会わない方法がないかと考えても無益だと思いますが、本当にアリスさんはそう思われているのでしょうか。ただあきらめるほかはない、と思っていらっしゃるのでしょうか。

 (2)ところで、いまこのたとえの中で使われている「自分」という言葉は、エゴを指しているのでしょうか、霊を指しているのでしょうか。

329 アリス: 323アリスの冒頭で、仏教やキリスト教の「自分」と猫さんその時使われた「自分」を対比させ、私の理解を示した積りですが、それには特段のご関心を示されませんでした。エゴについての共通の理解がないままですが、私の理解を申し上げ、猫さんのご検討をお受けすることにいたします。

先ず、雑踏ですが、森羅万象すべてです。人間も含みます。

(1)<何とか不如意に出会わない方法がないかと考えても無益だと思いますが、本当にアリスさんはそう思われているのでしょうか。>「自分」と「意志」ある限り、雑踏ですから、不如意は避けられないと思いますが、雑踏の流れを読んで、より、快適な不如意の少ない所へ行くことが可能だと思います。

(2)ここで「自分」はエゴを指しています。人間の中の私が霊的存在で、「自分」が生まれ、「意志」生れると考えました。そのプロセスは自問自答で表した積りです。

なお、雑踏の比喩は326を戴いてとっさに思いついたもので、もっといい譬えがあるのかもしれません。雑踏と見るのは今の「自分」のレベルを表しているのかもしれませんね。

330 猫: 話が大分込み入ってきていますので、少し整理したいと思います。

 まず、323でアリスさんが仰った<仏教、キリスト教、では「自分」=エゴ、猫さんがここで言っておられる「自分」は「霊としての自分」ではないでしょうか?>というお言葉には注目しなかったわけではありませんが、そこで私の考えをさしはさめば、質問が先に進まないと思ってあえてパスしました。

私は「自分というのは、エゴでも霊でもなく、そのとき自分が自分であると思っているもの」と考えています。それがスポットライトのたとえの意味です。148で私は「自分という意識」という言葉を使いました。私は、これはあらゆるものの中で最も根源的な意識ではないかと考えています。322で<「自分」というものはそれほど簡単になくならないし、なくす必要もないのです。>といったのはそういう意味です。

この「自分という意識」、すなわちスポットライトを照らす者は、いつも「照らす者」であって、決して照らされることはありませんから、それが何者かはわかりません。「自分という意識」は、時によって、エゴを自分だと思ったり、霊を自分だと思ったりするのです。エゴを自分だと思えば不如意の中に住み、霊を自分だと思えば如意の中に住み、無だと思えば無になり、永遠だと思えば永遠になる・・・これこそ、存在も非存在も超越した何か・・・ともいえない何かだと思っています。

 また、仏教やキリスト教のいう「自分」がエゴであるというお話は、事実そのとおりかも知れませんが、そのことは、エゴでない自分があり得るということとセットにして話さないと意味がない教えだと、私は考えています。エゴが自分だと思い、それ以外の自分を想像もできない人に、「自分を無くせ」と教えても無駄だというのが私の考えです。<「自分をなくせ」という教えは、このような自分でないものを自分だと思うことをやめなさいということだと、私は解釈しています>といったのは、そのような意味です。(もうすこし精密に論じると、「自分でないものを自分だと思うことをやめなさい」という言葉は、「霊でないものを自分だと思うことをやめなさい」という意味です。「自分でないもの」の「自分」は、確かに霊を指しています。)

 

 以上は、私の考えです。

 アリスさんのお考えについて言えば、

<雑踏ですが、森羅万象すべてです。人間も含みます>というのはわかります。現象世界のすべてが雑踏である、と仰っているのですね。

 <雑踏の流れを読んで、より、快適な不如意の少ない所へ行くことが可能だと思います>は、自問自答の「H勝手に変化するのか I因果律のようなものがある」というところに対応していますね。

<人間の中の私が霊的存在で、「自分」が生まれ、「意志」が生れると考えました>と仰るのは、<人間の中の私が霊的存在で>という部分がよくわからないのですが、要するに霊的存在であったアリスさんの中に、エゴが生まれ、エゴの意志が生まれたということだと理解します。そのような言い方は私もしますので、言葉の上では、アリスさんと私との間にそれほど大きな違いはないように見受けられます。

ところで、この三つのフレーズの意味するところは、アリスさんがエゴのレベルで世界を見、エゴのレベルで不如意の解決を求めておられるということのように思えます。これに対し、私は、「エゴのレベルでは、決して不如意は解決しない」と考えており、そのことを繰り返しお話ししているつもりなのですが、それについてはどのようにお考えでしょうか。<何とか不如意に出会わない方法がないかと考えても無益だと思いますが・・・>というのも、そういうつもりなのですが。

もっと、簡潔に表現すれば、「エゴのレベルでいたいなら、不如意はなくならないもの」と達観すべきだし、「不如意をなくしたいならエゴのレベルを離れなさい」というのが私の考えなのです。

331   アリス:(しばし沈黙)
猫さんとは案外近くにいるのかも知れませんが、言葉の霧に包まれぼんやりとしています。これは、この対話の始まった2年前からですが、猫さんの「意識」が分からない。
あるときは霊そのものであたり、個別化された魂であったり、またその働きであったり、いまだに、翻弄?されます。本人をよく知っておれば、例えば、秀吉と呼ぼうが、太閤と呼ぼうと、筑前守と呼ぼうが、話が通じるのですが、私は本人をまだよく知らないのかもしれません。

148で<<エゴと自分という意識の違いは、言葉を定義しないと混乱するのでは・・・> まったくその通りです。心に関しては、エゴ、セルフ、ハイアーセルフ、パーソナリティ、魂、霊、心、意識などさまざまな言葉が氾濫しています。しかも、エゴもセルフも「自分」という言葉から来ています。けれども、言葉が混乱するのは理解が混乱しているからだともいえます。まだ、心や意識について、共通の言葉が使える段階に来ていないのです。

私が、エゴと「自分という意識」が違うといったのは、次のような意味です。エゴというのは、これまでにお話したように、人間の心のサブシステムであって、特定の目的を達成するように作られた自動化装置の部分です。

 これに対し、私が「自分という意識」というのは、「これが私だ」と感じる部分、意識の主体を自覚する部分という意味です。この「自覚」という部分がなかったら、意識の問題は単に精神世界におけるさまざまな機能の働き方の問題に過ぎなくなります。自分で「自分という自覚」を持つところが意識の問題の中心なのだと、私は考えています。>とありました。

それから最近では265で「存在の階層」について<猫さんの今お考えの階層を全部お示しいただければと思います。>に対し、265<・・・ただし、究極の創造神が人間から二つ上の階層かどうかはわかりません。ひょっとしたら、神と人間とのあいだにたくさんの階層があるかもしれないし、もしかしたら無限の階層があるのかもしれません。たとえば、

神 − 超霊 − 上霊 − 霊 − 人間 − 演劇

ということかも知れないし、

  神 − ・・・・・・・・・・・・・ − 霊 − 人間 − 演劇

かもしれません、>とのお答えでした。

私が不用意に「人間」という言葉を使って、混乱を起こしたのかもしれません。私の趣旨はA霊的存在としての人間の中に、B私という個別化された霊的存在があり、 C「自分」と名をつける。それが「意志」を生み、D「エゴ」が発生する。 私の疑問は、BがDで発生する不如意を少なくし、如意の方はたっぷりと味わう、そんな手はないものか?ということなのですが・・・歯が痛いから抜いてしまうのではなく、歯を治し、ご馳走を食べたい。痛みは生きているから生じるのだから、痛みをなくすには死ねばよい。これも解の一つですが、それもおかしい気がして、つらつら、考えています。エゴの支配下にある発想かも知れませんね。

また、<「自分という意識」という言葉を使いました。私は、これはあらゆるものの中で最も根源的な意識ではないかと考えています。>私は、BがあるからCが生まれるので、Bのほうが根源的ではないかと、今のところ、考えております。結局、同じかも・・・

そんなことを考えながら、時間が経ってしまいました。

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