111 アリス: 猫さんの「アリスさんが絵を描きたくなるのは、アリスさんのなかに「創造し体験する」という要素プロセスの性質が受けつがれているからです。そして、それはとりもなおさず神自身の本性なのです。アリスさんが絵を描くとき、それは神が絵を描いているのであり、アリスさんが絵を鑑賞するとき、それは神が自ら描いた絵を鑑賞しているのです。たとえそれがどんなに下手な絵であったとしても、神が描き、神が鑑賞していることには変わりありません。なぜなら、わたしたち人間は神の意識の細胞であり、神の意識の細胞がすることは神がすることだからです。」というお話を聞いて、なるほど、ナルホドと頷きました。何の得にもならぬことをして悦に入っているのですから・・・

しかし、「神が直接作り出したものは、自発的に表現と体験を追及する要素プロセスであり、要素プロセスが体験する世界は要素プロセスが自分で作り出す世界ですから、要素プロセスが体験する世界は神から見れば孫創造の世界ということになります。」とのことですから、すべての事柄は結局「神の御業」ということなって、絵を描くのも泥棒もテロも同じことにならないでしょうか?

 

112猫: この結論をお話しするといろいろの誤解が生じると思いますが、誤解については後でゆっくり説明するとして、まず結論を申しあげます。

 「すべての事柄は結局『神の御業』ということになって、絵を描くのも泥棒もテロも同じことにならないでしょうか」というご質問に対して、私は「まったくそのとおりです」とお答えします。善も悪もふくめて、すべての事柄は神の御業です!

この結論を聞いて、もしアリスさんが「それはおかしい」とか「そんなことがあってはならない」と思われるようでしたら、それは「神の御業」という言葉を誤解されているからです。そして、誤解しているのはアリスさんだけではなく、世の中のほとんどの宗教家が誤解し、自分が誤解しただけでなく、誤解したものを正しいとして教えてきました。たまに誤解しない人が出てくると、それは異端であるとして、火あぶりにしたり、著書の発行を禁止したりしました。(私はいまキリスト教について語っています。世界の創造者を「神」という言葉でとらえるのはキリスト教であり、また私がいちばんよく知っている宗教がキリスト教だからです。たとえば仏教などを念頭において語るとすれば、「表現」を大きく変える必要があると思います。)

「神の御業」に関する誤解は、大きくまとめれば次の五つです。

 1.「神の御業」であれば、人間には責任がない。

 2.「神の御業」は、人間が変えることはできない。

 3.「神の御業」は、すべて「善いもの」であるはずである。

 4.「神の御業」のほかに「人間の業」がある。

 5.世界の中には「神の御業」でないものが存在する。

説明は、逆の順序でしていきます。

まず5番目の「世界の中には神の御業でないものが存在する」という考えをとりあげましょう。私は対話108で「神以外には何も存在しない」と言いました。そして「神以外のもの」と思われる存在物は、すべて神の意識の中における思考すなわち神の想念である、と申しあげました。もしこのことを承認するなら、「すべては神の御業である」というのは、自動的な結論になるはずです。世界の中にも外にも神の御業以外のものは存在しません。

神の御業以外のものが存在するという考えは、自動的に二元論あるいは多元論(二神論あるいは多神論)を採用することになります。根源的な存在である神が複数存在するという考えはまた別の問題を引き起こします。それについては、機会があれば別に取り上げることとして、ここでは一元論(一神論)の立場で続けることとします。

私はもちろん、これまでの話からお分かりのように、一元論を信じています。そして一元論または一神教の立場にたつならば、神以外に存在するものはない、したがって存在するものはすべて神の御業である、というのは一本道の結論です。

4番目の「神の御業のほかに人間の業がある」という考えにまいります。この考えのポイントは、神の御業と人間の業との関係にあります。一見、さきほどの結論からいえば、すべてが神の御業ならば、人間の業は存在しないことになりそうです。けれども、そうはなりません。

「すべてが神の御業であるならば、人間の業はどこにもない」という考えは、神の御業と人間の業を(数学あるいは論理学でいうところの)排他的関係としてとらえています。排他的関係とは、あるものが神の御業であれば、それは人間の業ではない。また、あるものが人間の業であるならば、それは神の御業ではない、という関係を言います。

けれども、人間の業と神の御業は排他的関係にあるわけではありません。人間の業はすべて神の業なのです。なぜなら、神がゆるさないことを人間がすることはできないからです。この「ゆるす」という言葉は、罪を罰しないという意味ではなく、「阻止しない」という意味です。神が「これはあってはならない」と思えば、それは存在できません。そのようなものを、人間は想像することも思いつくこともできないでしょう。人間が考えたり、思いついたりできるものはすべて神の意識の中に存在するものばかりです。なぜなら、人間全体が神の意識の中にあるからです。人間が神の意識の中にあり、人間の考えが人間の意識の中にあるとすれば、人間の考えはすべて神の意識の中にあることになります。「あるもの」の中にあるものの中にあるものは、最初の「あるもの」の中にある、というのは、集合論の初歩的な定理です。

意識体験の要素システムである人間は、神から「あらゆるものごとを経験する」ように「委託」されているのです。何を経験しようともそれは自由です。人間の自発的選択と自由な意志に任されています。したがって、人間が何をしようとも、それは神の委託のうちであり、その意味で、それは神の御業でもあるのです。

次に3番目の「神の御業はすべて善のみである」という考えにまいります。

この考えは、「神の御業」というものが何であるかということを理解しないところから出てきます。私たちが「神が世界を創った」というキリスト教的な、あるいは西洋的な世界観を聞くと、「神の外」に世界がつくられているようなイメージを持ちます。西洋人も、特別に思索した人でなければ、たいていおなじようなイメージをもっています。けれども、神は大昔に「世界を創って立ち去った」不在地主のようなものではありません。

神の創造とは、神の意識の中における認識活動であり、認識活動が存在していることが神の「知」そのものなのです。「神の御業」とは、神がそれを「知っている」ということと同一なのです。

したがって、もし神の御業がすべて善のみであったとしたら、神は悪について「無知」であることになります。これは神が「全知」であるということと矛盾します。神は、善も悪も、美も醜も、聖も俗も、光も闇も、生も死も、・・・ありとあらゆることを「知って」います。もし「神が知らないこと」があったとしたら、人間がそのことを思いつくことはありません。人間が悲しみを知っているなら、神も悲しみを知っています。人間が絶望を知っているなら、神も絶望を知っています。

それが、人間の業の中に「悪」が存在する理由です。人間は、あらゆることを体験する神の意識のエージェントとして、「悪を体験する」ことを選んだのです。これは神が強制したわけではありません。神のエージェントには完全な自由が与えられています。人間が「悪を体験するのは、自分でそれを選んだからです。なぜ人間がそれを選んだか、ということは、あとで別のテーマとして取り上げることにしましょう。

ここまでお話ししてくれば、2番目の「神の御業は、人間が変えることはできない」という考えに対する答えは、容易におわかりのことと思います。

「私が   を体験する」というのが神の御業なのであって、空白の部分に何を入れるかは、私たち人間の一人一人に任された部分なのです。したがって「私が   を体験する」ということは変えることができません。人間は、神の意識の中の体験エージェントです。このことは人間の本質であって、決して変えることはできません。

けれども、「私が   を体験する」その内容は、「私」が選んでいるのです。すべての人が一人一人、自分で選んだ「夢」を見ているようなものです。その夢の中身は、だれでも、自分で変えることができます。むしろ逆に、この夢の中身を「神が変えることはできない」というべきなのです。

 最後に、1番目の考え、「神の御業であれば、人間には責任がない」にまいります。もし、人間が変えることができないのであれば、人間には責任はありません。けれども、変えることができるのであれば、責任があります。この場合の「責任」というのは、「悪者はだれか」という意味ではなく、むしろ単なる因果関係を表しています。人間が体験する世界は、人間が変えなければ、だれも変えることはできない、という意味です。

繰り返し言いますが、人間は神の全権を帯びた体験エージェントです。人間は、自らの意識の中で、さまざまな存在の形態を体験します。何を体験するかは、「完全に」人間にまかされています。何を体験しても、それは「神に対する罪」ではありません。けれども、これは「悪」が存在しないと言っているのではありません。「悪」を体験することも、体験エージェントの権限の範囲である、ということです。

ずいぶん長い話になりました。次回は、これを表現する一つのたとえ話をお話しします。

113アリス:是非、たとえ話をお聞かせください。

対話34へ   対話36へ  トップへ  Alice in Tokyo へ

アリスとチェシャ猫との対話(35)