
私は、図らずも社会人になると同時に、能楽の分野に本格的に足を踏み入れることになってしまった。
学生時代最後の年のことである。学校を卒業した時点から、それまでごく軽い気持ちで続けてきた剣道とか俳句の他に、何か一つ、もっと本格的に取り組めるような趣味を持ちたいと思うようになっていたが、丁度時を同じくして勧められたのが、長唄と謡曲であった。
それ以前から、出身地の町の合唱団で歌ったり、気の合った友人と弁論サークルを作って下手な演説をぶったりした経験から、声を出すことに生理的な快感のあることを知っていたから、長唄であれ謡曲であれ、以後長年続ける趣味としてはどちらも格好の対象になり得るとは思ったが、経済的なことや余暇時間のことを思うと、どちらかに絞らなければならなかった。
本音を云えば、知人から紹介された長唄の師匠がかなりの美形であったことから、そちらの方に全面的に気持は傾いていたが、一方、謡曲の方は、身寄りの少ない自分にとって父親代わりになっていた大叔父からの、強い、と言うより脅しに近い勧誘があって、ついに断りきれなくなってしまった。
当時、その大叔父は、自分が若い頃謡曲を習っていたが早世してしまった能楽師に一人息子がおり、その息子が家元(観世流)の内弟子に入っていることを聞きつけるや、家元に直に掛け合い、異例のことながら内弟子の身分にも拘わらず、その息子が横浜にある大叔父の家に出稽古に来られるように計らっていたのであった。
この様な背景から、私も半ば強引に、その若い、と言っても私より2歳年上の内弟子修行中の能楽師に師事させられて、能樂の中の声楽に当たる「素謡」(すうたい)の稽古を始めることになった。
能樂に馴染むには、その舞踊の部分に当たる「仕舞」(しまい)を素謡と並行して稽古する方が良いし、技量を磨く上でも相乗効果があることは当初から分かっていたが、それが出来なかったのは、月謝の負担が重かったからである。
若い、まだ独立前の師匠ではあっても、業界としての決まりがあるらしく、月3回の稽古で1500円と云う金額は、経理部に配属されたため残業収入が多いとは云え、手取り1万5000円程度の給料生活者にとってはかなりの重圧感があった。
このため、仕舞を正式に習い始めるのは、謡に遅れること数年、それも始めてから2年間程は、私の懐具合を見かねて、大叔母が密かに月謝を肩代わりしてくれた上での話である。
もう一つの悩みは、会社の仕事が忙しくて、なかなか稽古に行けないことであった。
当時は、勤務先も横浜だったから、仕事が終わると20分ほどで稽古場に駆けつけることが出来たが、遅くも7時半には稽古場に行かないと稽古をつけて貰えない。しかし、当時の職場の慣習で、仕事が有っても無くても8時位まで会社に残るのが通例であったから、
稽古に行くために結構悪知恵も働かせたが、それでも月2回行ければ良い方であった。
決算月などになると、一度も稽古に行けなくなってしまう。そういうときは、大叔父に頼みこみ、休みの日に押しかけて教えを乞うた。
爾来、地域をまたがるような転勤がなかったことと、師匠との年齢差が少ないこともあって、40年余りの間、同じ師匠に師事し、細々とではあるが稽古を続けてきてしまったが、過去を総括してみて、まあこれで良かったのだろうと思っている。
良いことの一つは、能舞台に出て舞えることである。
舞台では謡を謡うこともあるし、舞を舞うこともあるが、私の場合、どちらかと云うと謡の場合は、「地頭(じがしら)」つまり合唱隊のリード役という言わば後方支援的な役割が多く、舞台上の花形と言えるシテ役は殆ど回ってこないから、舞台上で主体的な役割を演ずることが出来るのは、専ら舞である。
舞う回数は、三菱グループ各社の連合会などいろいろな機会を通じて、年に数回程度であるが、中でも一番準備と緊張を強いられるのが、毎年十一月に、私の師匠が主宰する同門の弟子たちの発表会である。
その会では、過去三十年間程は、毎年、囃子入りの舞を舞うのが通例になっているが、半年以上の準備をした後に凡そ十数分程度の舞を舞うだけのことが、仕事以外の私的な分野では、自己実現の最たるものになっていることは否めない。
つまり、数ヶ月にわたっての、新たに挑戦する舞のすべてを習得していくプロセスの積み重ねがあり、そして最後のステージで、極度の緊張感を維持しつつ全力で蓄積したものを一挙に放出するわけであるが、その際、全身がリズムに一体化し、的確な間合いを取ることが出来、且つ曲趣に応じたメリハリと情感を表現出来れば、舞い了えたときの達成感は最たるものになる。
現実にはなかなかこうはいかずに、毎度、慙愧の思いが多少なりとも付きまとうが、それでも、持てるものを出し切った後は爽快であり、また次ぎの年に向けての挑戦意欲が湧いてくる。「雀百まで・・」とは良く言ったものである。
ところで、舞台の上での「緊張感」であるが、これはあくまでも精神的なものであって、身体までこわばってしまっては舞にならない。精神は刃の如く研ぎ澄まされていなければならないが、四肢はあくまでも柔軟自在でなければ舞にはならないのである。その点では、剣道など日本の武道と共通したところがあるが、ゴルフのパッティングや釣などにも共通の要素がありそうである。四肢を柔軟にとは言っても、緊張のあまり、名人と言われる能楽師でも、往々にして扇の先が震えることがあるが、これは良しとされているようだ。私の場合も、どうしても本番になると扇が震える傾向にあるが、家人は「貴方のは酒のせいですよ・・」とにべもない。
もう一つ、長らく能楽に拘わっていて良かったと思うのは、身の回りに、同好の仲間が増え続けていることである。
そのきっかけは、30歳台前半から、ボランティア的な発想で、地域の高齢の方を主対象に自宅を解放して始めた教室である。指導される方も、単に稽古をするだけでは張り合いがないだろうから、年2回程度、地域の公民館を借りるなどして発表会を開くことにした。
近所に住んでいる友人が、会の名前が要るだろうと言って、「白謡会」と云う名前を付けてくれたが、名前の由来は、住んでいる町名に因むと同時に、白寿まで頑張って謡いましょうと言う願いがこめられている。
宅稽古は月2回を原則として続けているが、何しろ教える方はわが身一人であるから、体力的にも時間的にも限度がある。朝9時から夜の6時半頃までの時間帯で、せいぜい25人分の消化が精一杯というところか。私にとって、肉体的にはかなり疲れる行為ではあるが、伊豆多賀とか、筑波学園都市とか遠方から来られる方もいるから気を抜いた対応は出来ない。
年齢の方も、会発足の趣旨からして当然ながら高齢の方が多く、現時点で86歳を筆頭に80歳台の方が5人おられる。なかなか、白寿までは難しく、数年前に、93歳まで通い詰められた方がおられたが、惜しくも95歳で天寿を全うされた。
白謡会も例外ではないが、一般的に言って、謡や仕舞を趣味にしている人には長命の方が多く、且つ殆どが実年齢より若く見えることが多い。(但し、本職の能楽師はそうでもなく、結構早死にする)
因みに、三菱グループの最長老の方は98歳、未だに無本(暗誦)で謡われることがあるから驚きである。
長寿との関係で言えば、謡いながら腹式呼吸をしたり、舞に太極拳に似た動きがあるため、健康維持に適っているのかも知れないが、因果関係はいまだにはっきりしていない。
もう一つ、お年寄りに関して言えば、何故か同好の方々は押しなべて個性派で、自己主張も多く、所謂可愛げのあるお年寄りはむしろ少数派である。ひょっとしたら、マイペースの生き方が長命と関係しているのかも知れない。
自宅での稽古のほか、勤務先でも希望があって、8年前から月2回、会社の会議室で稽古を始めており、現在のところ部員は11人、加えて重工本社謡曲部からの要請で、2年前から、第1、第2月曜日の夜、重工ビル地下の和室に稽古に行くことになった。こちらは、元船舶担当常務の田中秀雄さんとの分担である。(田中さんは第2,第3月曜日担当)
かくして、発表会も年を追うごとに盛会となり、春は横浜能楽堂、秋は川崎能楽堂と決めて、凡そ80人規模の、素人の同好会としてはまずまずの催しが出来るようになった。
しかし、一番の悩みは、若い人、つまり次世代を引き継ぐ人ががなかなかいないことである。
昨年、能楽はユネスコより、世界無形遺産に選定された。
能楽は七百有余年も続いている日本が誇るべき伝統芸能であり、舞台芸術としての完成度も高く、西欧のオペラに比べても何ら遜色のないレベルに達していると思っている。
これが何とか後世に連綿と伝っていって欲しいし、微力ながらも、そのためのお手伝いもしたい。これが目下の私の願いである。
以 上