![]() |
![]() |
アリス、アリスに会う 66−76 | ![]() |
![]() |
66 猫 : <存在そのものが既に戦いの構造を持っている>とおっしゃる意味はわからないことはありません。「無」が「陰陽」に分化し、その相互作用によってダイナミックなドラマが生まれるという構造は理解できます。けれども、それを「戦い」と見るか(感じるか)、「協力」と見るか(感じるか)は、見方が分かれると思います。
私は、現在の地球という世界は、それを戦いという局面で表現する世界だと思っています。けれども、「存在」の本質においては、そうではない局面もあると考えています。
この問題は、これだけを直接的に論じてもあまり実りのある結果は期待できないと思いますので、もう少し身近な問題から入ってみませんか。
アリスさんは、61で<ゲームの中で勝ち負けの要素をなくすと急に面白さがなくなりますね>と言われましたが、「勝ち負けの要素を入れると面白くなくなる」と感じる人間もいるということを、どうお考えになりますか。ここで言う「勝ち負け」とは、もちろん他人と勝敗を争うことです。
私は20代の頃は囲碁や将棋というゲームが好きでした。けれども、40歳を過ぎる頃から人と勝負を争うことをむなしいと感じるようになり、囲碁も将棋もやめてしまいました。囲碁というゲームそのものは、頭の体操としては非常におもしろいゲームなので、いまでも新聞碁を並べてみたり、詰め碁に挑戦してみたりということはしますが、もうひとと碁を打つ気分にはなりません。
また、たとえば、トリノのオリンピックで、フィギュアの荒川静香選手が金メダルを取りましたが、あのような美しいパフォーマンスに芸術点などという点数をつけて1位、2位を決めることにどれだけの意味があるのか、疑問を感じています。
アリスさんが絵を描くのは、誰かと競争するためでしょうか。シェイクスピアを読むのは、誰かと博学を競うためでしょうか。
私は、むしろ勝敗を離れたところに、本当の楽しさがあるように思うのですがいかがでしょうか。
67 アリス: 絵を描くのもシェイクスピアを読むのも勝敗を争っているわけではありません。そのこと自身が楽しいのです。所が上野で開かれる多くの公募展はまず入選、そして、**大臣賞とかxx大賞とかが選ばれています。フィギュア・スケートでも金銀銅とランク付けされて、これが大衆の関心を引きます。勝敗、序列付けこれは社会のメカニズムでは、何だか必須のようですね。最近は学校の試験だけではなくTOEICなど英語の試験を初めとして何とか検定というのが流行ってこれも好きではありません。私も猫さんと同様、勝ち負けのたらとあること、人にランク付けされることは好きではありません。これは性格なのか、負けず嫌の裏返しなのか自分でもよく分りません。
『不思議の国のアリス』第3章では、涙の海でずぶぬれになったアリスや動物達の体を乾かすために、ドードーという鳥が提案して、全員が行う「コーサス・レース」というのを行います。これは適当な円を描いて、その周りを適当の走り、適当な時にお仕舞いにします。終って皆が「誰の勝ちだ」と言うと、ドードーは、予期していなかったので長考の末、「全員が勝ち。賞品は全員貰うべし」と言うのです。
<、「勝ち負けの要素を入れると面白くなくなる」と感じる人間もいるということを、どうお考えになりますか。>
この人はドードー派ですね。私も良いと思いますが、このゲームをさらに面白くしようとするのが、勝敗や順序付けなのだと思います。
68 猫 : この地球の上に「勝ち負けがないとおもしろくない」という人がたくさんいることは、私も認めます。けれども、だからといって、私は「勝ち負け」が存在の本質的構造であるとは思っていません。
私は「勝ち負け」というのは、一種のイリュージョンだと思っています。それは、どこかの魔王が――どこの魔王でしょう――人間が「存在の本質」を悟らないようにするために、人間界に仕掛けた罠なのです。
どんなゲームでも、「勝ち負け」という目標設定をしてしまうと、ゲームそのものを楽しむことが出来なくなってしまいます。すべての行為は勝つための手段に過ぎなくなります。すべての瞬間は、「勝つ」という結果に到達する為の通過点にすぎなくなります。
禅をはじめとして、すべての霊的教えは be here now ――「現在」の瞬間にいなさい――と教えます。けれども、「勝ち負け」に取りつかれると、現在の瞬間を味わいながら、ゆったりと生きるということが出来なくなります。人間は、ただ、ゴールに向かって走り続けるだけの存在になってしまいます。「勝ち負け」というのは、ミヒャエル・エンデの「モモ」に登場する「灰色の男たち」――時間どろぼう――と同じことをするのです。
69 アリス:<どんなゲームでも、「勝ち負け」という目標設定をしてしまうと、ゲームそのものを楽しむことが出来なくなってしまいます。>と言うことですが、目標設定することは良いのでしょうか? それとも目標を設定することもいけないのでしょうか?
70 猫 : まったく目標設定をしなかったら、そもそもゲームがなりたたないでしょう。ゲームどころか、あらゆる行為がなり立たなくなるでしょう。ただ、目標の立て方にいろいろあるということです。
たとえば、私が最近やってみて意外におもしろいなと思っている「数独」というゲームがあります。このゲームの目標は、ある一定のルールにしたがって、空白のマスを数字で埋めていくことですね。この目標がなかったら数独というゲームは存在しません。
けれども、私がこのゲームをおもしろいと感じるのは、マスに既に入っている数字の相互関係から、まだ空白になっているマスの数字を推理するところにあるのであって、その速さを他人と競うことではないのです。
私は、「他人と競争する」というのは、最もばかげた目標設定だと考えています。
71 アリス:詰め碁は数独と同じように他人と競争をしないから、目標としてはまともで、碁は相手と勝敗を決めるから、これをやることはばかげた目標となりますが、これでよいのでしょうか?ちょっと猫さんらしくない感じがしました。
一人のゲームであれn人のゲームであれ、本質は余り変わらない気がするのですが・・・・
先に挙げた「コーカス・レース」は多数でやりますが、勝ち負けはないのですね。
ゲームの本質は何かということになります。
しばらく、人間の行動に限って話を進めることにしたいと思うのですが、急がば回れで、基礎から議論しますと、人間の行動にゲームを含むものと含まないものがあるといたします。例えは、美しい音楽や絵を聞いたり見たりすることはさしあたりゲームとは関係がなさそうです。ぼんやり夕日を見たり、お酒を飲んでいるのもゲームに関係がなさそうです。数独や巨大迷路に入るのは一人でもゲームのような気がします。私は目標を設定してしまうともうゲームの領域に入るのではと思っています。このあたり、猫さんと考えをそろえていないと後々混乱しそうに思うのですが、いかがですか? 私の分類を示します。
A, ゲーム A1 勝ち負けあり
A2 勝ち負けなし
B 非ゲーム
(Aは目標設定あり、 Bは目標設定なし)
愛の問題とどう関連するのか分りませんが、後々のために議論しておきたいと思います。
72 猫 : アリスさんの分類を用語の定義として使うことについては、さしあたり異論はありません。ただし「勝ち負け」とは他人と比較することであるということにしておきます。人間は、ときには自分自身と戦ったりしますので・・・。
けれども、人間の行動一般について、ゲームの意義だとかその価値とかについて話をするとなると、本を10冊ぐらい書かなければならないようなことになると思います。先へ進む前に、一体何を問題にしようとしているのかを明確にして、的を絞ったほうがよいような気がします。
話の発端は、アリスさんが《61》で「ゲームの中で勝ち負けの要素をなくすと急に面白さがなくなりますね」とおっしゃったあたりにあるようなのですが、人間はなぜ勝ち負けが好きなのか、ということが問題なのでしょうか?
73 アリス;とりあえず、この問題から片付けましょう。これには「愛エネルギー欠乏症」の症状だと言うのが猫さんのご意見でしたね。もう少し詳しくお話いただけませんか。
私の問題意識は63で述べたとおりです。
74 猫 : アリスさんは「愛エネルギーというのがよくわからない」、というお話でしたが、「愛エネルギー」というのは、人間がどれだけ霊性を忘れたかという尺度だと思ってください。「生命エネルギー」「霊性エネルギー」などと言ってもいいし、人によっては「次元」「密度」「振動数」などという言葉を使う人もあります。
また比喩的な表現になりますが、熱エネルギーが少なくなると寒くなるように、愛エネルギーが少なくなると心が寒くなり、その結果として、人間もほかの動物や植物も、戦いや競争に明け暮れるようになる、というのが私の考えです。
愛エネルギーが不足しているのは、人間だけではありません。地球世界全体がそうなのです。その結果、自然界まで影響を受けていると私は考えています。たぶん、アリスさんはとても信じられないと思いますが・・・。
75 アリス:正直なところ、このところが分らないのです。名前はともかくとしてエネルギーがあるとして、誰のエネルギーなのでしょうか?猫さんのお説だと現実と見えるものは、実は仮想で、つまり、ゲームの世界のキャラクターのようなものだということですが、エネルギーはこのキャラクターのエネルギーなのでしょうか?それともキャラクターを送り込んでいる何者かのエネルギーなのでしょうか?
07/4/29