アリス、アリスに会う  333−

333 アリス <異国の地をひとりで徒歩旅行するというのはどういう意味があるのか、>というお尋ねは、実は私にとっても面白いテーマなのです。
今の状態で結論を言いますと「良く分からない」ということです。そのことを「アイルランドの細道」の「旅の目的」でも書いていますし、また、これからも書いていくつもりです。
なぜ「旅に出たいのか」は芭蕉は「道祖神の招きにあいて」とか、「予もいづれの年より、片雲の風にさそわれて、漂泊のおもいやまず」とか言っていますが、それがぴったりなのです。これは「なぜ絵を描くのか」といった問題と同じですね。ただ、一つ言えることは、私の心が本当に求めるものは、言葉とか本とか映像ではなく、もっと原始的なものなので、そのためにはどうしても肉体を使うことが必要です。肉体もバーチャルなものであることは、猫さんとの長い間の対話でも繰り返され、私もそう思いますが、それでもなお体を動かすことが必要だと思っています。そのような一つの形が徒歩旅行という形をとったのではないかと思います。
では、体を動かせばなんでも良いかとなると、私の好みは、ランニング、水泳、ジムでのトレーニングといった定型的なものの繰り返しは好きではありません。身近にそれをやっている人も多くいて、それなりの深いものを味わっておられるのは確かで、その価値を否定するものではありません。
旅を選ぶ理由は、それらのスポーツと違って、ルールがない、偶然がある、したがって予期しない危険もある、場合によっては身の危険がある・・・。旅も様々ですが、今回私のしたい旅を表現するのは大変難しいのです。「アイルランドの細道」では、逆に、私のしたくない旅行を取り上げ自分の旅を明らかにしようと思っています。
先日取り上げたのは、スタンプ・ラリー式のもの、つまり、四国88箇所巡りのようにあらかじめコースが設定されていて入るもの。そのコースが、お仕着せの、所謂パック旅行。私は自分でも天邪鬼な性格だと思っていますが、皆のやることは余りしたくない。
もう一つ体を動かすことの中に、旅には人との出会いがあることが大きな要素になっています。息を呑むような絶景、珍しい風物、これらも見たいと思いますが、今求めているのはそのようなものではないということです。
そのような形で、消去法で、自分の旅を規定していくと、最後には何も残らくなり、<異国の地をひとりで徒歩旅行するというのはどういう意味があるのか、>を知るために、異境を独り旅をするのだと言うことになりそうです。
何故、異国なのか?何故一人旅なのか?についてはこの次にお話します。

334  : かなり複雑な心境ですね。私に共感できるところもあれば、そうでない部分もあります。

芭蕉の「漂泊の思いやまず・・・」というところですが、私は「旅」にはそれほど心が動きませんが、同じところに10年ぐらい住んでいると、「何処か違うところに行ってみたいなあ」という気持ちが生まれてきます。それは旅に出るというのではなく、別の場所に住みたいという欲求です。今の場所に住んで13年になりますから、すでにそういう気持ちが心の片隅にないではありません。

旅と移住は似ているように見えますが、何か本質的に違うところがあるような気がします。その違いは、現在の瞬間における安定感にあるのではないかと思います。旅というのはつねに不安定な状態に身をおくということですね。移住はつねに安定しています。新しい土地に行っても、そこが自分の住まいであると覚悟しているわけで、不安定ではありません。

旅というのは、自分をつねに観察者の立場におくことになるのではないかと思いますが違っているでしょうか。移住はつねにその場所における生活者になることです。ただし、私のような移住者は、本当の意味での「原住民」とはまた違いますね。現代の日本の都会でも、生まれてから死ぬまで、ずっと同じ家に住み続けるという人がありますが、そういう人の経験する世界と、私のような「移住者」が経験する世界、そして、アリスさんのような「漂泊者」が経験する世界とは、それぞれに違っているのだと思います。

335 アリス:<旅というのは、自分をつねに観察者の立場におくことになるのではないかと思いますが違っているでしょうか。>と言われますと、ちょっと違う感じがします。勿論、観察者でもありますが、観察される側ににも同時に立ちます。ある状況の中に自分を置いて、そこで触れるものとどう交流するかということです。そして、そのドラマの主人公は外ならぬ自分だと知って、もう独りの監督が動かしていく。そんな感じが近いと思います。映画のヒロインが私の旅に近いイメージです。旅は実は監督が作りあげるのですから、旅のズーと前から始るわけで、「アイルランドの細道」を思い切って早くから書き始めた理由はここにあります。「旅装―帽子」を読んでいただいたら、監督が主人公にどんな帽子を着せようと考えているかを読み取れると思います。帽子など大きな問題ではないのですが、これを考えるのも旅の楽しみなのです。監督の絵コンテの一部です。
原住民、移住者、漂泊者の見方は面白いですね。
何故、漂泊者的旅を選ぶか?(自由度の少ない旅行も多いのですが)それは上記のように、原作、監督、俳優を同時に自分の意志でやれることが確認できるからだと思います。しかし、映画を作るのとは本質的に違うものがあります。シナリオをあらかじめ書かず、旅をしながらシナリオを書いて行きます。登場人物は主人公を除きコントロールできません。監督が余り野放図でも収拾が付かなくなると困るので、自衛上、始点と終点ぐらいを決めておくのですが、時間と財力によって、(勿論監督の才能によって)色んなシナリオが可能です。終点を設けるのは定住への回帰を示します。実は人には大変強い定住願望があって、旅はそれと対になっているよう思います。定住からの離脱を旅とすれば、一見自由度の少ないお遍路旅、パック旅行,なども立派な旅であります。
安定すれば不安定を求め、不安定が続くと安定を求める――ということなのでしょう。
私の心の底にはいつも、何の憂いもなく、心地よい風の流れる緑陰で好きな本を読み、時には菜園に手を入れ、冬にはぬくぬくと暖炉の傍でミステリーなど読む――そんな安定した生活への願望があります。そして、たまに、旅もしたいということでしょうか。

336  : アリスさんの旅は、碁や将棋のゲームに似てますね。今度は振り飛車でいこうとか、美濃囲いを使ってみようかなどとおおまかな戦略はあるかもしれませんが、相手の出方によってどんどん戦法は変えていかなければならない。毎回、思いがけない展開があり、一手のミスで有利な戦局を失うこともあれば、自分でも驚くような妙手を発見して勝利の喜びに浸ることもある――なんとなく、アリスさんと旅との関係がわかるような気がします。

そういう目で見れば、私たちがこの地球に生まれてくる一回一回の人生がゲームなのだと思います。天国と地獄が隣り合わせにあり、天使と悪魔が共存しているようなこの地球で、どんな人生を送ろうとして、私たちはこの世に生まれてきたのでしょうか。

<安定すれば不安定を求め、不安定が続くと安定を求める――ということなのでしょう> まったくそのとおりだと思います。私は、この地球の上で私たちがすることは、霊の私たちがしていることのミニチュア版だと思っていますが、霊も、しばらく「天国」でのんびりしていると、また冒険がしたくなって、地上に降りてくるのだと思います。

ところで、なぜ異国なのか、なぜ一人旅なのか、という点をまだお話いただいていませんね。次回、よろしくお願いします。

337 アリス:大きく見れば、旅も人生もゲームのようなものと言えなくありませんが、旅する者にはちょっとぴったり来ないものがあります。そのことを例を挙げて少し書いてみます。

とあるドイツの小さな町。予約していたホテルは意外に閑静な住宅地の中にあった。もともと個人の住宅だったのかもしれない。普通の家に入る感じで入り、小さなフロントで古風な大きな鍵を受け取り、3階まで階段を重い荷物を下げて上がっていった。部屋に入ろうとするとドアが開かない。部屋番号を確かめるが合っている。悪戦苦闘しているところに、同じ階の泊り客、小柄な老婦人が、通りかかり、「ちょっと鍵を貸してご覧んなさい」と私から鍵を受け取り、ガシャガシャと音をさせた思うと、さっとドアを開けてしまった。鍵の文化で育った人は違うな!と思う。御礼を言って中に入る。初めてのホテルで最初に部屋に入るのには期待と不安が交差する。窓の傍に行くと下は中庭で、小さな果樹園のようだ。緑が一杯で、小鳥のさえずりもにぎやかだ。まずまずのホテルだ。私はベッドの上に大の字に寝る。「さあ、これからどうしよう」・・・・・

旅の一こまを切り取るとこんな感じになります。このようにシーンが次々と移って行きますが、「ゲーム」と違うのは、自分が生きているという実感を味わっている点にあります。日常生活で、無意識に行い、出会っている事柄が、旅の中では、意識され、生きている自分を感じるのです。
なぜ異国なのかもこれに繋がると思います。日本では殆どが「想定の範囲内」ということで、無意識に流されますが、ひとたび環境が異なると、自分の生きているという実感が強くなります。
私は小さい時から、異国へ強いあこがれを持っています。それは外国人との接触を求めているのでしょうか?珍しい風物に接することを求めているのでしょうか?
外国人との接触という点では、ここ数年、日本語の教師として、ずーと週に4人から8人くらいの外国人に接してきました。そして絶えざる刺激を得ると同時に、自分の日本人としての自覚も深まってきたように思います。しかし、私は定住者として、彼らに接しているので、自分の視点はなかなか揺らぎません。やはり、彼らが定住している所に出かけて行って、自分の身を曝すのとは違います。風物もそうです。映画やテレビで、いくら沢山珍しい風物に接してもそれは生きている感情には繋がりません。その中に身を曝した時に、自分は生きて、ここに立って、この風を吸っているのだいう実感を得ることが出来ます。
なぜ一人旅なのかも、同じことです。自分を日常の生活から切り離し、違った環境に身を曝す最良の方法だと思うからです。地元の人も一人なら容易に受け入れても、二人なら警戒します。私の経験では悪い人は二人で組んで仕事をすることが多いからだと思います。二人旅の楽しみも否定しません。特に夫婦でリズムが合えば、楽しみも安全も倍化すると思いますが、それはまた別の種類の旅となります。
今私のしようとしている旅は、裸の自分を異境に曝して、「生きている」実感を楽しもうということになるのかもしれません。

338  : アリスさんが書かれたホテルの場面を読んでデジャビュに襲われました。ヘルマン・ヘッセの「荒野のおおかみ」の冒頭がこんなシーンだったと思いました。探してみたら、少し違っていましたが、書いてみます。

荒野のおおかみは五十がらみの男で、数年前ある日私のおばの家に立ち寄り、家具つきの住居を求めました。そして屋根裏の一室とその隣の小さい寝室とを借り、数日後トランク二つと大きな書物の箱を一つ持ってやってき、九ヶ月か十ヶ月私たちの家に住みました。彼はたいそう静かにひとりで暮らしていました。もし、私たちの寝室が隣りあっているため階段や廊下でときどき偶然会うということがなかったら、私たちは知り合うことなんか、まったくなかったでしょう。あの人は社交的ではなかったからです。それまでどんな人にも認められなかったほど高い度合いで非社交的でした。彼は実際、ときおりみずから名のっていたように、荒野のおおかみで、私の世界とは別な世界の、異様な、野生的な、そしてまた内気な、いやまったく内気な存在でした。(高橋健二訳、『荒野のおおかみ』、新潮文庫)

このあとに、荒野のおおかみが最初におばの家に現れて貸部屋を求めた場面が続くのですが、ここには見知らぬ旅人を迎える側の、不安と好奇心に満ちた心理状態が見事に描かれています。旅が、旅人にとっても、それを迎える定住者の側にとっても、非日常の体験なのだということがよくわかります。

アリスさんは、ふだん無意識に行っている生活を強いて意識化することによって「生きている」ことを実感しようとされていますが、私は逆です。新しい土地に行ったら、そこでの生活が無意識にできるようになるまでとどまっていたいと思います。それが、私が漂泊者でなく、移住者を選ぶ理由でしょうね。それは、もしかしたら、次のことと関係しているのかもしれません。

<私は小さい時から、異国へ強いあこがれを持っています>とアリスさんはいわれました。私もそうです。けれども、私の「異国」は、最初から、地球の上にはありませんでした。子どもの頃、私はそれが何処かよその星にあると思っていました。そのため、私は天文学やSFに強い関心を持ち、一時期は天文学者になろうと本気で思っていました。

いまでは、私は、それが時間も空間も超えた別次元の世界であることを知っています。私は、月の世界から地上に降りてきたかぐや姫のようなものです。毎晩月を仰いで、月に帰れる日を心待ちにしています。そのような人間にとっては、この世の生活は無意識のうちに流れていかなければ具合が悪いのです。けれども、本当の定住者になってしまうと、自分が月から来たことを忘れてしまいそうな不安もあります。それで私は移住者の道を選びたいのかもしれません。

いずれにしても、アリスさんが、旅に強い関心を寄せられる背景がよくわかりました。私が選ぶ道ではありませんが、アリスさんの心情は納得できます。実はつい最近、私の親しかった女性が山で遭難してなくなりました。このひとも、何かやむにやまれぬ強い憧れがあって、山に出かけていったのだと思います。ある人は山に、ある人は旅に、ある人は別次元の宇宙に・・・・人間を止むにやまれぬ思いに駆り立てるこの「憧れ」というのは何なのでしょう。

339 アリス:この「憧れ」が何であるか、今の私にはわかりません。333でそのことを書いています。これで思い出すのは、40年程前に読んだヘミングウエイの『キリマンジャロの雪』の冒頭の部分です。今取り出して、直訳しますと次のようです。 
「キリマンジャロは、19,710フィートの雪に覆われた山で、アフリカで最も高い山と言われている。その西の峰はマサイ語Ngaje Nagai、神の家と呼ばれている。その西の峰の近くに豹の乾燥して、凍結した死体がある。こんな高い所へその豹が何を求めて来たのか、説明できる人はいない。
この小説の主人公はの狩猟ためにアフリカに来ていて、今は壊疽のようなものを患って動けません。大半がこの主人公の回想です。
ご存知のように、へミングウエイは、生の高揚を求め、ボクシング、狩猟、闘牛、戦争、大物の漁と次々と求めて過ごした人で、結婚も4度しています。
何が彼を駆り立ているか彼自身にかわかりません。そんな気持ちが、この『キリマンジャロの雪』の冒頭の部分がよく表して、私もこの箇所だけはよく、覚えています。
最近、猫さんの知人が山で遭難されたそうですが、私も6月に親しい方をシチリアの海で失いました。80才を越しておられましたが、ここ数年の内、4回もシチリアを旅行しておられます。どんな力がこの方を動かしたのでしょう。
一つわかりやすい説明は、輪廻のようなものがあって、その力に突き動かされていると考えるのはどうかと思うのですが、今度はその輪廻とは何かとと言うことで、堂々巡りが始ります。猫さんは、この「憧れ」について何かお考えがありますか?

340  : これは、「自分を探すアリス」の中で取り上げたテーマと同じですね。「自分を探すアリス」の対話110のあたりで、「アリスさんが絵を描きたくなるのはなぜかと」いうことを話題にしましたね。そのとき、私は、それは神から継承した神の本質だという話をしました。私たちが山に行きたくなる、旅に出たくなる、その他なんでも、何かをしたくなるのは、神の好奇心の表れなのだと思います。私たちがこの物質世界という幻想を作り出したのも、その好奇心の結果であると思っています。

ですから、あまり「なぜか、なぜか」と穿鑿したり、意味があるのかないのかと悩んだりせずに、好奇心の促すままに楽しんだらいいのだと思います。もともとこの世は幻想であり、幻想世界は、ディズニーランドと同じように、楽しむ以外には何の意味もないのです。古代インドの哲学が見抜いていたように、「すべては神の遊び」です。それに一言付け加えます。「神」とは、私たちの一人一人のことです。

2008・8・28
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