アリス、アリスに会う  317−332

317 アリス :猫さんの素晴らしい例え話で「私」が立体的に浮き彫りにされ、良く分かりました。シェイクスピアがこれを読んだら、きっと、にっこりとうなずいたことでしょう。この世が舞台で、私達は、色々な役を演じては消えていくことをシェイクスピアは描き出していています。「私」をシェイクスピアに置き換えると面白いですね。色んな役を作り、台詞や舞台回しを考え、自らも俳優として舞台に立つ、さらには、劇場の経営にも関与する。全部自分の作り出したものだから、シェイクスピアは作品のどんな端役にも愛情を注いでいます。
このようなシェイクスピア的「私」は猫さんのHPの中の「漫画家の物語」http://members.jcom.home.ne.jp/dawn-watcher/HomeComing/StoryTeller.html
でも描き出しておられますね。
すべてを作り出す「私」に気づくことが大切なんですね。

誰に向かって演技するのか考えてみたら、これも「私」が作った観衆なので、漫画の読者はその漫画家
だということになります。

しかし
<その「魂の個性」が本当の「私」なのかというと、私はそうではないと思っています。「本当の私」というのは、あくまで「個性を持つ能力」であって、「個性」ではない、というのが私の考えです。>その後の猫さんのお話も十分納得できます。

舞台俳優として、座付き作家として、劇場経営者として、さらにはお芝居以外のことに手を出そうとしている「私」というものがいるのですが、忙しく時間が経っていきます。
シェイクスピアの場合は、50才半ばで、故郷のストラトフォード・エイヴォンへ居を移し、悠々と隠居生活を送りますが、それに比べ、私の現在はなんとも中途半端のものです。それはそれでいいのですが・・・・

318  : 昔から「天国は退屈だ」というジョークがあります。天国にも極楽にも「休息」というイメージがあるかもしれませんが、本当は、生命というのは、無限に成長・発展していくものであろうと思います。一時的な休息はいいかもしれませんが、たぶん、しばらくするとまた何かしたくなるのだろうと思います。

地球という世界を創ったのも、そういう退屈した霊たちだったかもしれません。「自らの霊性を忘れる」という強烈なルールを発明して、善と悪の二元社会を作り、その中で果てしない抗争をつづけるゲームセンターが生まれたわけです。40年近く前、私は子どもをひざに抱いて「宇宙戦艦ヤマト」のテレビを見ていました。そして、仮想敵を設定しないと子ども向けの物語さえも作れない人間の性(さが)にうんざりしていましたが、それは地球世界の基本的なルールだったのかも知れません。

けれども、地球世界はいま基本ルールを変えようとしています。忘れた霊性を思い出すというのが、これからの私たちのなすべき仕事です。思い出すことが出来るので、忘れることが遊びになるのです。霊性を思い出した暁には、基本ルールは抗争ではなくなります。生命は無限に成長・発展していくにしても、無限に争い続けなければならないわけではありません。無限の協力というスタイルもあるのです。この基本ルールを抗争から協力へと変えるのも、生命の発展の一つの段階であろうと思います。

319 アリス<本当は、生命というのは、無限に成長・発展していく>ものなのでしょう。これは、自分自身を認識するための動きなのですね。

「自らの霊性を忘れる」という強烈なルールを発明して、善と悪の二元社会を作り、その中で果てしない抗争をつづけるゲームセンターが生まれたわけです。>とありますが、これは何時始まったのでしょうか?この発端が分れば、<霊性を思い出す>ことも易しいのではないかと思うのですが・・・・

320  : <これは何時始まったのでしょうか?>というのは、地球の時間で計って、という意味でしょうか。それは私もよく知りません。地球の時間というのが、霊性にとってどれほどの意味があるのかも、よくわかりません。イェシュアも、時間は幻想だ、と言っていましたね。

重要なことは、私たち人間が単なる物質の塊ではなく、永遠不滅の霊的存在であること、それが物質世界という二元性の仮想現実の中で遊んでいるということ、その仮想現実から、いつかは本当の現実、自分の霊性に目覚める必要がある、ということの三つだと思っています。

私は、霊性を思い出すのに、それを忘れた時点に戻る必要があるとは思っていません。私たちは自分の意志で霊性を忘れたので、また自分の意志で霊性を思い出せばいいのだと思っています。

321 アリス:ちょっと言葉使いが悪かったのかもしれません。どんなきっかけで、こんな遊びを始めたのだろうか?という問いなのですが、言葉を使い始めてからだ、というような答えが返ってくるのかと思っていました。私が物を失うと、家内はいつも「どこで失ったの?」「何時失ったの?」と聞きますが、思い出すことはありません。霊性を忘れるのも何時、どこでと詮索は不要なのかもしれませんが、それが思い出せれば、霊性を取り返すのが早いと思ったのです。

話を少し遡らせます。
「自らの霊性を忘れる」という強烈なルールを発明して、善と悪の二元社会を作り、その中で果てしない抗争をつづけるゲームセンターが生まれたわけです。>と見るのは、猫さんであり、私ですね。これを、仮想のものと見るのも猫さんと私ですね。これはルールですから、変えようと思えは変えられる訳で、少なくとも、猫さんは変えようとしておられるし、その時期だと考えておられます。
抗争のルールから協力のルールへの変換ですね。
しかし、私は思うのですが、無限に発展、成長する生命(宇宙といっても良いし、神と言っても良い)にあって、抗争と見るか協調と見るかは、大変難しい問題であると思うのです。自然界で、例えば食物連鎖を見れば、抗争は実は協調となっています。万事塞翁が馬の話題(212以降)へ戻るかもしれませんが、どのようなルールも持って臨まないのがいいという考え方が出来ます。
協力のルールをもう少し解説いただけませんか?

322  : <どんなきっかけで、こんな遊びを始めたのだろうか?という問いなのですが・・・> 私は完全な能力を持っている霊が何かを始めるのに、何かきっかけが必要であるとは思っていません。以前に「完全な自由意志には理由がない」と言ったことがありますが、それも同じ意味です。

けれども、別の説もあります。それは、あらゆる被造物は、分離(separation)と合一( unity)の間を振り子のように行ったり来たりするという説です。この説では、ちょうど一日のうちに昼と夜が交互に訪れるように、あるいは、季節の移り変わりのように、宇宙には分離のサイクルと合一のサイクルが交互に訪れると言います。その周期は1万4千年だそうです。もしこの説に従って考えるなら、私たちが霊性を忘れるというゲームを始めたのは、最後に分離のサイクルが訪れたときということになります。それは伝説のアトランティスが崩壊した時期に重なります。

そして私が人間に霊性を思い出す時期が来ていると感じるのは、分離の季節が終わって、合一の季節が始まろうとしているという意味になります。

<抗争と見るか協調と見るかは、大変難しい問題であると思うのです。> アリスさんのお考えには、自然界の法則は決して変わらないという前提があるように思います。けれども私は、私たちが霊性を思い出すならば、自然界そのものが変化すると考えています。食物連鎖の意味も変わるし、たぶん、「食物」という概念がなくなるだろうと思っています。なぜなら、霊は生存するのに何かを食べる必要はないからです。

私たちは、いま、牛や豚を平気で殺して食べることが出来ますが、それはふだん私たちが動物とコミュニケーションできないからです。もし、私たちが日常的に牛や豚とテレパシーで話が出来るとしたら、――そこでどんな会話をするか知りませんが――私たちは、その会話の相手を殺して食べるようなことはできなくなるのではないでしょうか。

私は、人間が霊性を取り戻すということはそういうことだと考えています。私たちは牛や豚や魚や小鳥と会話し、植物とも言葉を交わし、風や山や川とも会話します。そして、たぶん、その会話の相手を殺して食べるような必要性はなくなるだろうと思っています。

323 アリス :私たちが霊性を思い出すならば、自然界そのものが変化すると考えています。>わたしもそうだろうと思っています。そこで働いているルールをもう少しお話し戴きたいというのが、311なのですが・・・・

私たちは牛や豚や魚や小鳥と会話し、植物とも言葉を交わし、風や山や川とも会話します。そして、たぶん、その会話の相手を殺して食べるような必要性はなくなるだろうと思っています。

この話でキャロル・ファンなら誰でも思い出すシーンがあります。横に逸れるかもしれませんが、書いておきます。
「鏡の国のアリス」の終わり、アリスが女王となり、お披露目のパーティーが開かれております。アリスの前の山羊の足のローストが深皿で出され、先輩の赤の女王が山羊の足をアリスに紹介すると、山羊の足のローストもぴょこんとお辞儀します。アリスがナイフを入れようとすると、赤の女王は「一度紹介されたものを切るのはエチケットに反します。」下げさせます。次はプディング、アリスは紹介は要らないというのに、また、赤の女王はアリスに紹介して、プディングを下げさせます。そしてカタストロフィーへ。

動物や植物と会話を交わしたばかりに、何も食べられなくなる。

ところが、「鏡の国のアリス」は大工とせいうちが牡蠣を遊びに連れ出して、全部食べてしまうという詩が挿入されています。(第4章)

このような次元のことは霊性を回復すると意味がなくなるのかもしれません。
合一の季節>とはどんな風景なのでしょうか?協力のルールと同じ問いなのですが・・・・

324  :協力と競争(抗争)の違いは、経済活動を見ればすぐにわかると思います。私たちが霊性を取り戻してしまったあとにどんな経済活動が残るのかはよくわかりませんが、仮にいまと同じような財物の生産活動が必要であると考えてみましょう。

私たちの経済の原則は「能力に応じて働き、働きに応じて受取る」です。その結果、必要なものを受取れない人が出てきます。必要なものがないのは困りますから、その人たちは自分の能力を使って、何とか必要なものを手に入れようと工夫します。その結果、詐欺や強盗をする人が現れます。

いま、中国と日本が境界線上にある油田の開発についてもめていますね。どちらも何とか交渉によってまとめようとはしていますが、双方が自分のほうに有利になるようにしたいという思惑を持っているため、なかなかスムーズには話が進みません。これが抗争の世界です。けれども協力の世界はこうではありません。どちらが開発してもいいのです。入手できた石油は、日本のものでも中国のものでもなく、人類全体の共有財産として、みんなで大切に使えばいいのです。

私が現役だった頃、世界の先進国はみんな海底に転がっているマンガンの鉱石を拾い上げる技術を開発しようと躍起になっていました。太平洋や大西洋の海底には、マンガン・ノジュールと呼ばれるマンガンを多量に含んだ石が転がっています。世界の先進国は、公海の海底にあるこの鉱石の採取権で紛争が起きないように、期限を決めて、それまでに採取技術を開発できた国が採取権を持つことにしようと決めました。それで、どこの国も一生懸命に4000メートルの海底から石の塊を掬い上げる技術を開発しようとしたのです。これも早い者勝ちで資源を奪い取ってしまおうという競争ですね。先進国のエゴではないでしょうか。これが抗争の社会です。協力の社会なら、技術を持っている国が採取して、それを世界中で分け合おうということになるでしょう。

もともと、人間も国家も民族も、平等にはつくられていません。人間なら、持って生まれた知力も体力も違います。国家や民族は、人口、国の広さ、気候条件、資源の保有量、その他、あらゆる点で違っています。もともと違っているものが公平に競争できるわけはありません。「公平な競争」という考えはまやかしです。それは猫とライオンが対等に競争できると考える以上にばかげた幻想です。

けれども、どんなに違っている人たちでも、どんなに条件の違う国でも、協力はできます。みんなで協力して、必要な経済的財物を生産し、その上で、得られた成果は、世界中の人たちで必要に応じて分配する・・・これが協力による社会です。

こんなことを言うと、お前は共産主義者か、といわれそうですね。そのとおりです。私は共産主義であり、また、共産主義ではありません。マルクスは、「能力に応じて働き、必要に応じて受取る」というのを理想の社会だとしました。私はこの考えは間違っていないと思っています。共産主義の間違いは、これを法律や制度や反対派との戦いによって実現できると考えたところです。人間の心が抗争の状態にあるなら、どんな制度を作っても機能しません。協力の社会は、人間の心が協力の心になったときにしか実現できません。

人間の心が協力の心になるのが「合一の季節」です。「合一の季節」とは、すべての人がすべての人を自分であると自覚する時代です。人々の意識が肉体という枠を超えて広がる世界です。お互いが自分自身ですから、お互いの考えていることも全部テレパシーでわかります。どこで誰がどんなものを作っているかも、世界のどこにそれを必要とする人がいるかも、瞬時にわかるような世界です。人々はみんな無償で働きます。なぜなら、他人というのは存在しないからです。全部自分自身だからです。体のどこかが傷んだら、すぐに手が助けに行きますね。「おれは脚じゃないんだから、脚を助けに行く必要はない」などと手が考えることはありません。それと同じように、どこかに助けを必要とする人がいたら、全世界がごく自然にそこを助けることになるというのが「合一の季節」です。「合一の季節」とは、マルクスの理想が実現する社会です。マルクスは何百年か生まれるのが早すぎたのです。おそらく、彼自身も抗争の心を持っていたのでしょう。「協力の社会」を「抗争の心」をもって実現するというのは、所詮、不可能だったのだと思います。

325 アリス:しばらく間が空きました。実は、322で猫さんがおっしゃった<私たちが霊性を思い出すならば、自然界そのものが変化すると考えています。食物連鎖の意味も変わるし、たぶん、「食物」という概念がなくなるだろうと思っています。なぜなら、霊は生存するのに何かを食べる必要はないからです。>というお考えと今度の324とが私の心の中で上手く融合しないからです。今、地球温暖化問題、サイクロン、大地震、飢餓など、協力の社会にならなければならない事象が起きているのですが、これらも心の問題だとすれば、一瞬に解決できるはずですし、合一ということて、現実の矛盾を解決しようと思っても、このやり方では際限がないと思うのです。そのうちまた分離の季節がやってくる。そんな思いで足踏みしています。上手くいえないのですが、「合一」と「分離」上手く並存させるか、または、それを超えてしまうようでなければ・・・という考えが去来するのです。

326  : アリスさんの悩みを正しく理解したかどうかわかりませんが、アリスさんの悩みの原因は二つあるように思われます。一つは、私たちが霊性を取り戻したときの世界はどんな姿をしているのかという問題であり、もう一つは、分離と合一のサイクルが繰り返すという話です。

第一の問題については、私は「答えはない!」と考えています。なぜなら、霊性の世界には、客観的な「形」というものはないからです。別の言い方をすれば、それは、それを体験する人の数だけあるのです。霊性の世界というのは、すべての人が自分の意識を体験する世界です。実は現在もそうなのですが、霊性を取り戻すとそれがもっと如実に現れます。アリスさんが体験するのはアリスさんの意識であって、それ以外に客観的な外界というものは存在しません。私が話をしているのは、私たちが物質世界という「意識の一つの状態」から脱出したときに生じるであろうと思われる一般的な傾向――つまり、分離と抗争の世界から、合一と協力の世界に移行するということ――であって、アリスさんの世界が具体的にどんな姿をとるかは、私には分かりません。それで、私は、324のはじめに、<仮にいまと同じような財物の生産活動が必要であると考えてみましょう>という言葉をいれたのです。

次に、合一と分離のサイクルが繰り返すという話ですが、私はある説が言うように、その周期が物質世界の2万5千年という数字であることに大した意味があるとは思いません。なぜなら、物質世界の時間はそれ自体が幻想だからです。けれども、合一と分離が繰り返すという説には大きな真理が含まれていると思っています。それを理解するために、一つのたとえをお話します。

アリスさんは絵を描かれますが、絵を描く人は時折カンバスから離れて遠くから自分の絵を眺め、全体のバランスであるとか印象であるとかを検証し、どこに手を入れたいかを考えた後に、ふたたびカンバスに戻って細部を描く、ということを繰り返すのではないでしょうか。私は「分離」のサイクルというのはカンバスに細部を描きこんでいる時期であり、「合一」のサイクルは全体を眺めている時期だと思います。私たちは、そのようなサイクルを繰り返しながら、大きな大きな魂の壁画を描いていくのです。

この作業に終わりはないのでしょうか。私は「ない」と思っています。もし仮に一つの絵が完成して、もうその絵に手を入れる必要がないという状態になったら、単にまた新しい絵を描き始めるだけです。画家は生きている限り絵を描き続けます。ですから永遠に生き続ける画家は永遠に描き続けます――それが私たちなのだと思っています。

327 アリス:私のために色々お考え下さってありがとうございます。このように2つに分けて、ご説明をお聞きすると、猫さんのお考えは、私の心によく収まります。第二の「合一と分離」で絵を描く話はよく分り、こんなすばらしい喩えは初めてです。ちょっと言葉を変えると、総合と分析、愛と知、陰と陽が織り成す世界があり、それを自在に行き来できる者がいるということだと思います。猫さんのご説明の中で「愛」をどう位置づけるかですが、分離から合一へ至ろうとする意志、または力と考えていいでしょうか?

328  : それでいいと思います。けれども、もっと大きな目で眺めるなら分離分析して「知る」のは、合一統合して全体像を作り出すための準備です。このように考えれば、分離分析も合一統合と対立するものではなく、あらゆる営みが、生命の限りない表現を作り出す活動の一部といえます。それは、画家がカンバスに近づくのも、カンバスから離れるのも、ともに「絵を描く」という創作活動の一環であるというのと同じです。

神の本質は、生命のあらゆる姿を描き続けること、存在の可能なあり方のすべてを表現しつくすこと、であると私は考えています。そして、「愛」とは、この神の「芸術家精神」そのものであると思っています。ですから、神はすべての存在を愛するのです。それがどのような姿をとっていようと、それは神自身の創作活動なのですから。

329 アリス328を戴いてから1週間近く経ってしまいました。おっしゃることに、何の疑念もなく、そうだと思ったきり思考が働かなくなり、なんとお返ししようかしばらく考えていました。
私は確かに芸術家、中学2年ぐらいの時それを感じました。そして50何年かの歳月が経ち、私はここにいます。2週間ほど前ですが、シェイクスピアを一緒に読んでいた後藤虎男さんという方(82歳)がお好きなシチリアへ遊びに行かれて、そこで亡くなられました。私の中にも、自分ではどうしようもない突き上げる情熱のようなものがあることが分ります。猫さんと勉強しているサンスクリットもその一つですが、沢山ありすぎて困っています。そのことを少しは記録に留めて見たいと思っております。

330  : 先日、久しぶりに、おもしろいSFを読みました。機本伸司という人の「神様のパズル」という物語です。留年必至の落ちこぼれ学生と天才少女がペアになって「宇宙を作る実験」をする話です。天才少女が粒子加速器で宇宙を作る――私たちの宇宙の子どもの宇宙を作ることができる――という理論を立てて、それを実験しようとするわけですが、実はこの少女を含め、登場する何人かの人物がみんな「自分は何者か、なぜ自分はここにいるのか」という問いを抱えています。彼等が宇宙物理にのめりこむのは、その答えを求めてのことなのです。

加速器センターを乗っ取って、まかり間違えば現在の宇宙が吹っ飛んでしまうかも知れないという実験を強行しようとする少女に、ゼミの教授が問いかけます。「なぜこんなことをするのだ。」「失敗だったのだ・・・」「何が?」「この星がだ。今までここで何が起きたかを考えてみればいい。この先どうなるかも容易に想像できる・・・・・だから一からやり直したほうがいいんだ。」

少女は、宇宙の始まりまでさかのぼれば、自分がここにいることの意味が解ると期待して宇宙論を研究したのですが、物理学は答えを与えてはくれませんでした。「宇宙は無から生まれた・・・」。それが物理学の答えです。少女は絶望しています。

実験の結果がどうなったかを書くのはルール違反ですから書きませんが、最後に、落ちこぼれ学生が卒論を書きます。その中で彼はこういうことを言うのです。「物理で説明できないものはない。物理は間違えない。ただしそれは『一側面』なのである。つまり物理的に考えても理解できないことはある。それは他の方法で理解すべきである。では物理の位置づけは何なのか。それは現実に対する『保障』のようなものではないか。多様な生命のあり方を保障するのに必要なのは、そのすべてにとって例外なく当てはまる明快な論理だといえる。それが物理ないし科学といえるのではないか。『自分』について問いかけても、物理はその答えを与えてはくれない。ただ物理は『保障』を与えてくれる。我々がなすべきことは、保障の内容を知ることではなく、その保障を受けてどう生きるかということなのである。」

霊的な教えでは、すべての出来事は「中立――ニュートラル」であると言います。物質世界はニュートラルです。物質世界自体には意味がない。善悪も、損得も、貴賎も・・・何もない。宇宙が無から生まれたというのは、宇宙には意味がないということです。それに意味を見出すのは、物理法則によって支えられた世界の中で、どのように生きるかという選択をする私たち自身なのです。秋になって木々が葉を落とします。そこに生命のはかなさを感じるのは感じる人の自由ですが、落葉樹は冬の寒さによって葉を落とさないと、次の春に芽を吹くことが出来ません。暖かい冬が続くと十分に落葉できなかった木は枯れてしまうそうです。

物質世界は舞台装置です。非常に豊かな可能性を支えてくれる舞台です。そして、その上で、どのようなドラマを演じるのか、それが私たちに与えられている自由であり、責任である――久々にそんなことを思い出させてくれた本でした。

331 アリス<物質世界はニュートラルです。>とはほっとします。ダーウィニズムのように、大きな進化の波に乗っている感じとは違いますね。
物質世界という舞台装置の中を、我々は自作自演の劇を演じ楽しんでいるわけですが、最近、アイルランド徒歩旅行を考えていて、それがどんなものか、お暇な折に、「アイルランドの細道」BBS版 BLOG版をご覧ください。

332  : <物質世界はニュートラル>というのは、アリスさんが描く絵と同じ・・・です。絵は、物質として見れば、単にある特定の分子の集合に過ぎない。絵の意味は、つねにそれを描く人、あるいは観る人の心にある。三次元の物質世界も同じで、それが持っている意味はつねにそれを体験する人間の心の中にある――という意味だと、私は考えています。

ところで、対話をちょっとお休みしている間に、アイルランド旅行の準備が着々と進んでいるようですね。アイルランド旅行もニュートラルな物質世界の一部であって、それ自体はニュートラル・・・のはずですが、それはアリスさんにとってはニュートラルではないようですね。アリスさんにとって、異国の地をひとりで徒歩旅行するというのはどういう意味があるのか、すこしお話を聞かせていただけないでしょうか?


2008・8・5
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